使わないものを買ってしまったことは、お金の無駄だったのか?
2019.12.21
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。「なんでこんなもの買っちゃったんだろう? お金の無駄だな」ってこと、よくありますよね。でもそれって自分の期待値を越えるものと出会うために必要な過程だったりするのです。買ってしばらく使ってみないと、それを判断することはできないのです。
不要なことが分かって、プラス1なのです
過去に何度か「うん。これは要るな」と思って買ったもののまったく使わず、家の隅っこでホコリをかぶったまま置いておくので邪魔になるので、結局まだ使えるのに捨ててしまったものがいくつかあります。
マンションを買ったときに「食洗機、要るでしょ」と思ってオプションで付けたものの、もう何年も放置しているし、スマホのマグネット付ケーブルなどはさほど嵩張るものでもないので、いまでもどこかの引き出しの中に入っていることでしょう…。
PCやスマホの中には、数100円程度で買ったアプリがいくつも……きりがないので、やめておきましょう。
振り返ってみれば「無駄遣いしちゃったな」などとも思うのですが、ちゃんと考えてみると、そうでもないことがわかるのですよ。
「この商品は、自分には不要だっった」ことが分かって、プラス1なのですよ。
どんなものにも、当たり外れは必ずあって、アタリだけを選ぶことはできないのです。
買ってみて初めてわかることなのですね。
これ、商品に対してお金を支払ってるものだから、無駄かそうでないかにこだわりますが、学習においても仕事においても、あらゆることに言えるのですよ。
うまくいかなかったものは、すべてハズレなのです。
たくさんハズレを引きつつも、運良くアタリを引くことができたからこそ、どうにかこうにか生きてこられているのですよ。
結果的にアタリが出たか、ハズレが出たかは重要ではないのですよ。
自分に合うかどうかよく分かっていないものを、お金なり、時間なり、エネルギーなりを費やして試してみたかどうかが大切なのです。
ハズレが出ることを恐れていると、アタリに巡り合うことはないのです。
努力が報われるとは限らない
「努力をしたからといって報われるとは限らない、でも成功した人は必ず努力をしている」という意味合いのお言葉を、これまでの人生の中で何度聞いたことでしょう。
自分でも言ったことあるかな? なんとなくあるような気もします。
ここ数年でよく見聞きするようになった「1万時間の法則」もこれと同じような意味合いですよね。
(参考:「1万時間の法則」について考えてみる)
どちらも「自分に向いてるかどうかを見極めるためには、それなりのエネルギーと時間が必要ですよ」ってことでして「無駄な買い物の話」と共通しているのです。
違っている箇所といえば、努力を自分の口で語るとカッコ悪いけれども、無駄な買い物は笑い話にできるってところくらいでしょうかね。
いや。無駄な買い物についても「なんで、そんなに思慮の浅いことを」とグチグチ言いたがる人もいますから「人を観て」ってことでしょうね。
「努力」を持ち出したついでに、ちょっと思っていることを。
自分自身で何かを頑張っているとき「オレって努力してるなあ」と思うときってあるのですよ。
「だからといって報われることが決まってるワケでない」ことは重々承知しているのですが、そこそこの満足感を得られるのですね。
そうすると、どこかしらに「これだけやったのだから、失敗しても仕方ない」という感情が生まれるのですよ。
そしていつしか、努力を継続することが目的化してしまう…と。
そうなると泥沼ですよね。どこかしらで、仕切り直しをする必要があるのです。
要所々々で自己検証することが大切なのですよね。
アタリは運
身も蓋もない言い方をすれば「買ってヨカッタ」に巡り会えるのも、努力をした先に成功に辿り着けるのも「運」なのだろうと思っています。
でも、使わないモノを買ってしまって「これは不要だった」という知見を得ることも、長年続けた努力が実らず「オレこれに向いてなかった」が分かることも、次の試技でアタリが出る可能性を高めてくれるのだと思っています。
自分に向いていないモノ・コトをひとつ減らすことができますからね。
だから、使わない道具を買うことは、お金の無駄ではないし、努力は否定されるべきではないのです。
大切なのは、ずっと試し続けることだし、自己検証を繰り返すことだと思うのです。
そうやってると、ときどき想定をはるかに超えるリターンをもたらしてくれるものと出会うこともあります。
例えばこのブログは、まずEvernoteで下書きをしています。そのあとで、WordPressにコピペしているのですよ。
Evernoteに残しておいたほうが、過去記事を整理したり、検索したり、移動中にスマホでチョコチョコっと読み直したりがとても便利なのです。当然、有償版にしています。
室内にいるときはずっと近々両用メガネをかけています。
ずっと、遠近両用メガネが合わなくてツラかったのです。
外出時のみ、近眼用メガネに掛けかえなくてはならないのが少々不便ですが、以前と比べてはるかに快適です。
冒頭で書いた「不要な買い物」と同じくらいの「買ってヨカッタ」に巡り合っています。
買わずに試せるものならば、それにこしたことはないのですが、往々にして買ってしばらく使ってみて、気がついたら手放せないものになっていたということが多いのですよ。
ハズレを引くことを恐れて、最初から試すことをしなければ巡り合うことはできなかったのです。
結局、豊かな人生を送るためのツールを手に入れる過程で「使わない道具」を買ってしまうことは避けられないし、一見、無駄な行動、無駄な体験に見えることも、そうではなかったりするのです。
ん〜と。ザッと検索してみても見当たらなかったのですが、たぶん僕はこのブログのどこかで「極力、無駄な行動を避けるべき」と矛盾することを書いてるような気がします。
自分の中に「無駄も必要」と「無駄を回避しろ」が両方とも存在していて、場面に応じて都合よく使い分けているのです。そんなもんなのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。