え、オレこんなこと書いたっけ?
2018.09.17
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。記事を書いてて「これ前にも似たようなこと書いたかな? 内部リンク貼ろう」みたいな感じで、以前書いた記事を読み返すことが増えてきました。たった2ヶ月しかブログ運営してないのに「え、これ誰が書いた?」って思うことがしばしばあるのですよ。
たぶん、他の何かに影響されちゃってるんでしょうね
投稿した記事数が増えてくると、前に書いたことを完全に忘れちゃってますよね。もともと「運用し始めは、質よりも量」「クオリティ低くても、どんどん記事を上げる」という考え方でやってますから、自分の記事を読み返してみて「何言いたいのかわからない」とか「文体がキモい」「構成メチャクチャ」なのは、未熟なのだから仕方ないのですよ。正直「下手くそで何が悪い」と開き直りつつやってます。
それにしても、驚くのは「え、オレこんなこと書いたっけ?」「こんなこと考えたことないよ」みたいな現象が起こることなのですよ。
なんなんでしょうね? 「ライティング・ハイ」みたいな現象なんでしょうかね? 試しに「ライティング・ハイ」でググってみました。皆無ではないけど「ランナーズ・ハイ」みたいな意図で使ってるケースは少なそうです。
「書かなきゃいけない」って、自分に課したシバリが、勝手に僕のアタマの片隅にあるものを引っ張り出してきてるんでしょうかね?
おそらく、その前後で読んだ文章や、観た動画に影響されてたりするんでしょうね。他人の作ったものを見ながら「これだよ、オレもこう考えてたんだよ」って思って、ガーっと記事を書き上げ、数週間後に読んで「何これ? オレこんなこと考えてないよ」ってことになっちゃってるんでしょうね。
自分の成果物を後から見直すって、キラいなんですよ
一度自分がアウトプットしたものを、自分で評価し直すって、嫌な作業ですよね。
僕、デザイナーなんで、以前関わった案件の話なんかになることだってあるわけですよ。「あのときの案件、萩ドットライフさんに依頼して、良かったですよ」みたいにな感じで、先方には何も悪気がないどころか、僕のことをとても評価してくれていることを告げてくれたりするのです。
当然、素直に「メッチャうれしい!」「この言葉を聞くために、オレこの職業やってる!」みたいな感情が表にでますから「ありがとうございます」「気に入って頂いて嬉しいです」とか返しますが、「ウァ〜、クッソ恥ずかしいヤメてくれ〜」みたいな感情も、僕のココロの隅っこの方に芽生えてたりするものなのです。
カッコ付けた言い方をすれば、アウトプットまではベストを尽くすけども、手を離した瞬間から批判の目を持たなくてはならない職業だと思うのです。
「あ〜すればよかった」「こういう選択肢もあったんじゃないか」「オレはすべてを出しきれなかった」……。「さ、次ガンバロ」を延々と繰り返してるもんなんですね。
だから素直に他人から言われる「よかったよ」を受容できない自分がいるんですよね。
僕がブログを続けていくための関門かもですね
ところが、ブログって一度公開した記事ををずっと残しつつ、後から評価し直して、削除したりリライトするもののようですね。
このあたりの技術に関しては、まだ学習不足なので、自分がどういう感情でこの作業に取り組むことになるのか、全く想像もつかないのですが、なんとなく気持ちの切り替えが必要なのかもな? と考えています。
これから延々と自分の成果物を自分で評価し直す作業が続くのですが、ここでいう成果物(アウトプット)って、僕が日常の業務で言っている「納品」とはまったく別の考え方で取り組むべきもののようですね。
公開した記事って、成果物であり、素材なんだな、と。
一旦は、来訪者なり、検索エンジンなりの評価を受けることにはなるけど、時間が経てばさらに加工するし、メンテナンスする。そして再度、公開して評価を受ける。そういうもんなんだろうと解釈しています。
今はまだ、ザクザク記事を投入し続けなければならないフェーズなので「なんとなく、そう予想してる」って程度ですけどね。
でもこのあたりは、「ページビュー数」や「平均ページ滞在時間」などを指標にして作業して、あまり内容について、いちいちトリハダ立てたりはしないように努めようと思います。ま、慣れなんでしょうね。
どんなにうまくなっても続くもんなんでしょうね
過去の自分の成果物をみると気持ち悪いって現象、程度の差はあれ、どんな職業にもありうるんだと思うんですよね。
特に駆け出しのころ、たとえば今のブログ書き始めたばかりの僕ですね。
成長スピードがどんどん加速していくフェーズですから、ちょっと前の自分との違いって大きいんですよね。
30年選手である「デザイナーの僕」と比較するとよくわかります。
2ヶ月前にやってた仕事の反省点なんて、そんなに思いつきませんもん。進行上やらかしてくれた、他人の悪口くらいしか浮かんできません。
たぶん、駆け出しのころって、できるできないは別にして、成果物を見るときの解像度が激的に向上していくんですよね。
書いてるときに見えなかったものが今、見える。だから「気持ち悪い」んだと思います。
「こんなこと考えてないよ」だって、似たような現象だと思うのです。
たとえば、僕は「子供の頃になりたかった大人」になっていないと思ってるのです。なぜ「と思ってる」であって「である」ではないかというと、僕が子供のころにどんな大人になりたかったかなんて、覚えていないからなのです。たぶん、そんなこと考えてなかったのです」でも、学校や近所の大人との会話の中で、なんかしら答えてたような記憶だけはあるのです。
たぶん、そのときテレビに出てる人や、自分の生活圏にいる大人を見て、テキトーな言葉を作り上げてたはずなんですね。すごく少ない情報量で「こんな大人になりたい」という言葉を作ってたはずなんです。
記事を書いた後、たとえ数週間しか経ってなくても、その間に僕は
- いろんな考え方に接してインプットしてる
- 自分の中で咀嚼して組み直しをしてる
- 自分の言葉としてアウトプットする準備ができてる
のです。3は、ブログを書き始めた効能ですね、この部分の解像度が急速に上上がってるフェーズであることが大きいですね。だから、ちょっと前に書いた自分の記事を読んで「え、オレこんなこと書いたっけ?」になるのだと思います。
結果、「数週間前の自分と、今の自分では情報量が違うんだから、考え方もアウトプットも違うに決まってる」ってことにしときます。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。