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恥ずかしい記事を残すべきか、リライトすべきか?

2018.10.17

こんにちは、萩ドットライフ()です。

卒業文集でも、誰かに送ったメールでも、自分が昔書いた文章を見せられて「なんだ、これは…」と恥ずかしくて死にそうになったことが何度もあります。こうしてブログを書き始めると、数カ月後、数年後の「死にそう」を量産してることになるのですよね。

この恥ずかしさを「成長の証」だと思うことにしています

久々に自分自身の「成長の証(あかし)」みたいなものを作ってる気がするのですよ。
子供のころには「自転車に乗れた」「鴨居に手が届いた」「100m13秒切った」など、いろんな成長の証を感じました。
働きはじめてからも、しばらくは「できないことができるようになった」「知識の量が増えた」「考え方が変わった」みたいな感覚があったように記憶しています。

もちろん今でも、新しい技術に対応したり、情報に触れたりして、日々変化しているはずなのですが、いつしか「成長している」という感覚を失っていましたね。

このブログを書きはじめて3ヶ月が経ちました。
アクセス数や収益には、まだ大きな変化が見られませんが、記事数は140を超えました。今書いているこの記事が145本目です。

たった3ヶ月なのに、書き始めのころの記事を読むと「恥ずかしくて死にそう」なのですよ。
「オレ、文章ヘタ」「文体キモチワルイ」みたいな技術的な未熟さだったり、「なんで、こんなこと書いてるんだ?」と首を傾げざるを得ないような、拙い考え方を披露していたり…。

おそらく、この先もずっと続くのですよ。今書いてるこの記事も明日にはもう「うわっ、なんだこれ」となってるのだと思います。
慣れるしかないんでしょうね。僕はこの恥ずかしさが「成長の証」だと思うことに決めました。

「穴の空いた練習着」「手にできたマメ」「手垢で黒ずんだ単語帳」みたいなもんでしょうかね。
そう思うと、ちょっとは恥ずかしさに耐えられるような気がするのです。

書いた記事を消さない

この恥ずかしさとの葛藤は、このブログを開設したときからあったのですよ。
公開前に、ヒマを見つけてはWordPressのテンプレートをローカル環境でカスタマイズする作業をしていたのですが、表示確認に記事が必要なのですね。
別に「あいうえおあいうえお」でも「テストテストテスト」でもよかったのですが、僕は記事を書き溜めしてたんですよ。2018年7月投稿記事の半分くらいはそうですね。

このブログを開設したときに「これを公開するの? なんか恥ずかしいな」と躊躇しましたね。
「今までのは練習だったんだから、開設してからちゃんと書こう」って思ってみたりもしました。

結局、いつ書いたものでも後から読んだら恥ずかしいものですし、あとから「こんな下手くそな記事から始めたんだよ」と、成長をコンテンツにしたいという思いもあって、公開しつつ「書いた記事を消さない」という、自分自身のルールを作りました。

僕が今50代半ばなのですが、60代になっても70代になっても「5年前、10年前のオレ、なにも知らねえな」と思い続けたいので、それを記録しておきたいという気持ちもあるのですよ。
思い返せば、子供時代・学生時代の記録はあるのですが、大人になってからは職業上の成果物くらいしか「恥ずかしいもの」が残っていないのです。

リライトをどうしよう……

ブログの運用方法について、いろいろググってると、

  • 記事を定期的にメンテナンスしよう
  • リライトしよう

という記事を目にすることが多いんですよね。
読んでいると「たしかにこれは重要だな、どこかのタイミングでやらないとな」と思わされるのです。
僕自身、ブログを運用する技術を高めたいですからね。

しかし、そうすると「恥ずかしい記事」を残せなくなっちゃうんですよね。

今のところ、この折り合いがついていません。
なんとなく「構成とか文章のわかりやすさみたいな技術的なものは更新しても、そのとき考えてたことや、行動したことが残ればいいのかな?」とか「見出しだけの見直しと、内部リンクの追加に留めるか?」などなど、いろいろ迷っている最中なのです。

このあたりを心地よいバランスに着地させるのも、ブログの運用において必要な技術なのかな? とも思いはじめています。

「行き当たりばったり」でいいか

良く言えば「流動的」とか「臨機応変」ということになるのでしょうが、過去の恥ずかしい記事を「そのまま残すか」「リライトするか」みたいな運用方針も時間の経過とともに変わっていってもいいように感じています。

途中で「あんな処理するんじゃなかった」みたいな後悔もするのでしょうが、それはその都度、記事にして残していくことにしましょう。これも「成長の証」なのですよね。

ブログの運用に限らず、僕たちはは日々、たくさんの情報に触れていますし、自分自身も加齢や成長とともに変わっていきます。
「これがベストだ」と思っていたことでも、ある情報に接したことで自分の考え方が正反対になることだってありますし、自分の行動が変わることで、今までとは違う思考になることも多々あります。

1ヶ月前の自分が書いたものを読んでも「オレこんなこと考えたことあったか?」と、目指していたことや悩んでいたこと、どうにかこうにかひねり出した解決策すらも、あっという間に忘れてしまうものなのです。
とりあえずは「行き当たりばったり」が最適解だと、今の僕は思っています。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。