これってパクり? それとも、影響受けてるの?
2020.01.15
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。他人の作を丸パクりするのはNGに決まってますが、いったん自分の腹に落としてからアウトプットするとき「これってパクり? それとも影響?」って悩むときってありますよね。「自分で考える」という工程の有無で決まるような気はしてるんですけどね…。
ブログを継続するために、毎朝やってること
こうして毎朝ブログを書くことに習慣にしているのですが、正直ネタなんて尽きているのですよ。
起きる度に「よし、今日はこの件について書くぞ」と思いつく訳ありません。
それでも以前よりは、見たこと聞いたことをちょっと心に留めておいて、時間のあるときに自分なりに咀嚼しながら言葉にしていくという工程をスムーズにできるようにはなったと思います。
このパターンについては、決して「パクり」ではないことは分かるのですよ。
自分で考え直して、自分の言葉に作り直してますからね。
逆に、他人のブログ記事を読みながら「この人、オレと全く同じこと考えてるじゃん。そうそう、これこれ」と、その人の記事を「てにをは」や、ちょっとしたエピソード部分だけを変えて自分のブログ記事として公開したら…。これは「パクり」でしょ。
いくら「オレと同じこと考えてる」人の記事だとしても、元記事が透けて見えたらアウトですよね。
「偶然似る」はあるにしても、偶然か意図的かなんて、書いた本人が一番分かってますもんね。
僕の場合「ダメだ。何も書くこと思いつかねえ」ってなったときにやることは、
- 過去記事の続編
- 再インプット
です。
「過去記事の続編」に関しては、過去に記事として掲載したものの「思ってたことを書き忘れちゃったな」とか「あのあとで、いい言葉思いついた」「ちょっと考え方変わったかも」みたいな心残りがあるテーマについて、微妙にタイトルや切り口を変えて、もう一度書いてみたりしています。
たぶん、ずっとこのブログを読んでくださっている方は「こいつ、また同じこと書いてるじゃねえか」とお気づきかもしれません。
それは僕もわかっているのです。
かなり書き進んでから「あれ? これって前にも書いたぞ」と気付くこともあります。
「再インプット」というのは、過去に投稿した「日ごろ考えてることって、さほど多くない」の内容を引用すれば、
Twitterのタイムラインを眺めたり、バズってる記事を読んだりしながら「ああ、こういうことを考えてる人がいるのか。オレならこう考えるな」と、思いついたり。
ということなのです。
この引用のために過去記事を読んで気付きました。
これって「日ごろ考えてることって、さほど多くない」の続編記事ですね。なんか、発想が同じだ…。
完全なるオリジナルってありませんよね
正直、後者の「再インプット」してから記事を書き始める方が時間がかかります。
直前に影響を受けた言葉や文章の記憶が残っているので、それを「自分の言葉」として繰り返しそうになってしまうのですよ。
当たり前ですが「丸パクりは、ナシ」くらいのことは承知しているのですが、まったく無意識のうちに、ついさっき触れたセンテンスやロジックを流用してることがあるのです。
このへんで「パクり? それとも影響?」と悩んで立ち止まることが多くなります。
「そもそも」という話をしますと、僕が思いついて、僕が言葉を選んで、僕が理論建てた記事があったとしても、それは「100%、僕のオリジナル」ってことなんてあり得ないのですよ。
僕が生きてきた50数年の間に「読んだ本」「出会った人」「目にした風景」「触ったもの」「聞いた音」などなど、影響を受けたすべてのものから、ちょっとずつパクることによって、僕という人間が成立してるのです。
そして、みんなそうなのですよね。
僕がブログのネタ探し中に見つけた、他人のtweetやブログも完全にその人のオリジナルではないはずなのです。
それを「パクり」の免罪符としようという話ではないので、決して誤解なきよう願います。
結局「パクり」なのか? 「影響」なのか? の違いは「自分で考えたかどうか」なのだろうと思います。
つまり、とても曖昧なのです。
他人の言葉や文章に触れて「この人、自分がうっすら思ってたことを言葉にしてくれてる」と気づいただけでも「自分で考えた」と認識してしまう人もいるでしょうし。
「この人はこう表現してるけど、自分ならこう考えて、こういう言葉を置くな」と細かくこまかく作り直すことを「考えた」と認識する人もいるでしょうからね…。
逆にいうと、その境界は「その人なり」でいいってことなのかもしれませんね。
自分で考えて、自分の糧にしよう
僕は長年デザイナー業でメシを食ってきましたから、何度も同じような場面に出くわしてるのですよ。
本格的な係争になったことは一度もありませんけどね。
クライアントが他者の作を指して「こんなのやって」ということが多々あることも原因なのかもしれませんし、レギュレーションが厳しくて、オリジナリティを発揮できる箇所が限定的であることも影響しているかもしれません。
他人の仕事を見て「これってオレの仕事パクってない?」と思うこともあれば、クライアントや中間業者の「これがいい、これがいい」に流されて、「う〜ん、これってパクリじゃん」に着地しちゃったこともありましたね…。
そのときに考えていたのは、前述の「自分で考える」という工程を含んでいたかどうか。
そして「その技術や思考様式を、今後の自分のレベルを高めるための要素として使えるかどうか」で判断して…、というか折り合いをつけていました。
この辺の「境界」は、考えても考えても、結論に至りません。
でも、いい切れるのは「ショートカット」でも「コツ」でも「ノウハウ」でもなんでもいいのですが、努力なしに楽にコマを進める方法なんてないということなのですよ。上手下手とか効率はありますけどね。
パクって「上手くやれた」と、そこで止まっちゃう人もいれば、他人の作を自分なりに分解して、再構築して、自分のものとして作り直したり、レベルを上げる人もいるのです。
前述のとおり、完全なるオリジナルなんて存在しないのですから、他人から影響を受け続けるしかありませんもんね。どこかしらに、自分からの影響を受けてくれた人もいることでしょうしね。
浅く受け取っちゃうと「パクり」、ちゃんと自分のものとして深めれば「影響」だと、大雑把に捉えておくしかなさそうですよね。
でも「どうせなら、自分のレベルアップのために上手に使おうぜ」と、そんなふうに思うのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。