共感し合うのも、しんどい
2020.02.06
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。他人のすべてを共感することも、自分のすべてを共感してもらうことも、そんなの無理に決まっているのですから、いちいち共感し合うことを重要視することもないように思うのです。「世の中、いろんな人がいるね」で、流していればそれでいいのです。
「共感こそが正義」は鬱陶しい
コミュニケーションにおいて、共感力って大切なものだとされています。
「共感できるものに出会いたいよね」だったり「共感できる人と一緒にいれると嬉しい」だったり。
まずは「共感って、なんだっけね?」ということでググってみました。
共感:
共感(きょうかん)、エンパシー(empathy)は、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのがこれである。通常は、人間に本能的に備わっているものである。しかし、例えば反社会性パーソナリティ障害やサイコパスの人物では、“共感の欠如”が、見られる。
出展:https://ja.wikipedia.org/wiki/共感(2020年02月06日現在)
僕は「共感し合あえる嬉しさを否定するワケではないけど、常にそれを求められたり、絶対視してしまうとしんどいんじゃない? そんなに、何でもかんでも共感できるわけないじゃん」と思っていて、ちょうど今それについて書こうとしていたのですよ。
で、ググってみるといきなり「反社会性パーソナリティ障害やサイコパスの人物では、“共感の欠如”が、見られる」って書かれてた…。
そういうもんなんでしょうかね?
まあ、気を取り直して筆を進めます。どんなところに着地するのやら。
僕はいま、無職になって暇で退屈なものですから、よく他人のブログやいろんな媒体の記事を読んでいたり、対談・座談系のYouTube動画を観たりして過ごしているのですよ。
そうすると当然ですが、理解できない意見や考え方がたくさん視界に飛び込んでくるのです。
ちょっと嫌悪を感じるときもあれば、「へえ、そんなふうに考える人もいるのか」とか、なんとなく自分と同じようなことを考えてる人だなと思っていたら「あ、ここは違うんだね」なんてこともあります。
そんな違いの中からときどきは「あっそう。うん、そうなのかもしれんな」と、僕の中でちょっとした変化が始まることもあったりして、ちょっとした驚きに出会えることもあるのです。
何を言ってるのかわからないと思いますが、僕も上手く言葉にできなくてモヤモヤしながら書いています。
決して「共感」ではないのだけれども、違う世界観とか、違う見え方、捉え方…。そういうものと出会えることがちょっと嬉しかったりするのです。
その背景には「共感なんて、できないものはできないよね」で済ませていいという前提が自分の中にあるからなのですよ。
「共感しなきゃ」「共感こそが正義」って考え始めちゃうと、鬱陶しくてたまらないのです。
同じものを観たり、同じ体験をしても、感じ方は人それぞれ。
こんなの、人が違うのだからアタリマエのことで、別に誰かに危害をくわえるようなものでもないのですから、スッキリと「うんそうね。自分とは違うけどね」と肯定できれば、それでいいのだろうと思います。
共感できないものも、目の前にやってくる
「インターネットが登場してから…」みたいな枕詞を使うのも、こっ恥ずかしいのですが、事実インターネットが登場してから、そういう「違い」が混在するプラットフォームやメディアがどんどん増えてきていますよね。
ほら、テレビ番組や雑載だったりならば、想定したユーザー層がなんとなく共感できそうな出来事をテーマにして、共感できそうな切り口でコンテンツ化していて、観るほう読むほうも、自分に合ったものを選ぼうとしますよね。
ただ、ネット上では、好きなものと嫌いなもの、共感できるものとできないものが常に入り混じっているのですよ。
色んな人たちが、プロもアマも関係なく勝手にテーマを選んで「自分はこう思う、こう感じる」について発信し続けていますからね。玉石混交ではありますけどね。
これをいちいち「この記事には共感できる、嬉しい」「この発言には共感できない、許せない」なんて判断するのってしんどいのです。
一歩引いた感じで眺めていて「いろんなものがあって、豊かでいいね」くらいの感じがしっくりくるのです。
有名な「みんなちがって、みんないい by 金子みすゞ」ってことですね。
まったく共感できない意見や考え方でも、自分が調子のいいときには「自分の中でモヤモヤしていたことをスッキリと言語化してくれていて嬉しい」とか「まったく共感できない。でも、そんな考え方もあるんだな。あれ? ちょっとわかり始めたかも」と、化学変化をおこしてくれたりもするのですよ、ときどきですけどね。
その程度の関係性でいいんじゃないでしょうかね。
「へえ、いろいろあるんだね」でいいじゃん
だから、SNSなどで多く見られるのですが、共感できない意見に対して「なんで? どうして?」と絡んでいる人が嫌いなのですよ。
おそらく、絡むこと自体が娯楽になっている人が大部分なのでしょうが、中には「共感できないこと」にイラつきを感じている人もおられるのでしょうし、真面目に「この人の考えをもっと知りたい」という欲求を持たれた上での行為なのかもしれません。
でも、それほど親しくもない人からの「なんで? どうして?」に付き合うのって、しんどいですよね…。
そこそこの知人とのやり取りでもキツいのにね。
他人が思ったり考えたりするすべてのことを共感する、逆に自分の何もかもを共感してもらうって、そんなの無理に決まってますよね。たぶん、みんなアタマでは分かってるはずなんですよ、そう信じたいですね。
共感できなくても「へえ、そういう考え方もあるんだね」で流せないのは、ネットの発達で誰もが自分の考えを発信できるようになったと同時に、それに対してリアクションするコストも劇的に下がったからなのでしょうね。
リアクションするにもいろんな人がいて、
- 「この記事、刺さりました。ありがとう」
- 「何いってんだ? このバ〜カ」
- 「なんで? どうして?」
いろんなパターンが、全部フラットに目の前にやってくるのです。
この中で、一番パワーを奪われるのは「なんで? どうして?」な人なんですよね…。
過去に「メールとかメッセージに疑問文いれるヤツ。会話が終わらん」という記事を投稿したことがありますが、それと似たような感じです。
「何いってんだ? このバ〜カ」みたいに、明らかな悪意がない分だけ厄介なのです。
そんな人の相手をするために、いちいち時間を費やすのが面倒なので、僕はこのブログにコメント機能を設けていません。
その代わり、twitterでときどきコメントをいただきますが、まだフォロワーが少ないせいか、とても常識的に動いています。
一時期、コンタクトフォームから意味不明のメッセージも届いていましたが、無視していたら来なくなりました。
世の中には、共感できないことも、気に入らないこともいっぱいあります。
でも、それが時を経て自分に影響を与えてくれることもあるでしょうし、何よりも世間というものは、楽しいこと嬉しいことの方がちょっと多くなるように作られてるような気がするのですよ。
だからまずは、自分に不利益をもたらすものではない限り、共感できなくても「へえ、いろいろあるんだね」と、世間の広さを感じるくらいがちょうどいいと思うのです。
なんか、言いたいことを上手いところに着地させることができませんでした。いずれまた似たようなことを書くと思います。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。