「思う」と「言う」のあいだの「書く」
2020.06.20
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。「思う」と「言う」の間には大きな隔たりがあるのですよ。思う分には勝手だけど、口にした瞬間にメンド臭くなることなんて、いくらでもありますもんね。でも「思う」だけだと頭が整理できないので「書く」という行為がとても使い勝手が良いのです。
「思う」と「言う」の距離
日ごろ、思ってることや考えてることってたくさんあるのですが、それをいちいち口に出して言うことって、あまりありませんよね。
思わないことを言いたくはならないので、みんな「思うこと>言うこと」のはずですよね。
個人差もあろうかと思います。
「そんなこと口にするから、いちいち角が立つんじゃん」な人や「ワイドショー番組でやってたようなことを、よくもまるまる自分の意見みたいに言えるもんだな」って感じの人もいれば、「この人、なんにも言わないな。何も意見がないのかな? なんでここにいるんだろ」みたいな人もいますよね。
環境にもよるんでしょうね。
オフィスで勤務している人は、常に空間の中に他人が存在しているので、思いついたことを次から次へと「言いたいこと」に変換し続けているでしょうし、リモートワーカーや無職で、常に独りの時間を過ごしている人は、ちゃんと意識しないと「思ってること」が「言いたいこと」になってくれないのです。
僕は、さほど多くの「言いたいこと」を持っていません。
その代わり「思ってること」はたくさんあります。
現在は無職なので暇だったりするし、その前もずっとフリーランスのデザイナーだったので、独りで籠もりながら、黙って作業しているのが好きだったのですよ。
(参考:孤独を楽しむことで、人は成長するよ)
自然と「思う」と「言う」を直結させて、なんでもかんでも言葉にしてしまうような習慣は失われますよね。
1日の大半を黙々と作業し続けるような日々に何の苦も感じませんし、むしろ快適です。
着電があったり、不用意に話しかけられることに不快感を持ってたりします。
ただ、こと仕事となると話は違ってきて、たとえば打ち合わせなどでは、言葉を発しないとそこにいる意味がないし、デザインの話をするときにデザイナーたる僕が話しの中心になることなんて多々ありますからね、そういうときには多く話します。
持ち場なので「言いたいこと」なんて、山ほどありますし、時間が許す限り、伝えたいこと、共有したいこと、詰めたいことが次々と湧いてくるのです。
「思う」だけではもどかしい
どうやら、こうして「思ってることを記録する(=ブログを書く)」習慣を作ったことで「思う」ことにも「言う」ことにも良い影響を及ぼしているようなのです。
「思う」と「言う」の距離から感じるもどかしさを縮めてくれるのですよ。
前述のように、僕はあまり「言いたいこと」を持っていません。
でも、「思っている」ことはたくさんあるのです。
たとえば「国会で○○議員が、こんなことを言った」とか「NYダウ下落の影響を受けて日経平均も」とか。他にもアートがどうだ、音楽が、スポーツが、近所の河川工事の進捗が、などなど…。
ただ「思う」と「言う」の距離が遠い質(たち)だし、環境なのです。
自分ではちゃんと「思ってる、考えてる」つもりなのでも、まったくアウトプットしないと「ホントにできてるのか? ちょっと不安だな」などと思うことも多いのですよ。
だから、定期的に飲み会や会合などに出席して「オレはちゃんと『思う』を『言う』にすることができるのか」ということを確認したくなるんでしょうね。
そういう場面で、上手く「言う」ことができなかったときには、ちゃんと「思う」ことができてないんじゃないかと、ちょっと自己嫌悪に陥ったりしますね。
その間を埋めてくれる、繋いでくれるのが「書く」ということだと思うのです。
打ち合わせやミーティングで、デザインに関することや表現に関することなら饒舌になれるのは、その場に出るまでに繰り返し思考していたことも関係していますが、長い職業人生活の中で、何度もしゃべったり、メールなどで言語化してるんですよね。
なので、引き出しに言葉が詰まってるんです。
こういう話も、こうして「思って、書いて」いるのですが、これまで「言った」ことはありません。
「思う」寄りの「書く」の効能
僕はいま人生の転機にいて、このブログ内で延々と「セミリタイアした」とか「無職になった」「山口県萩市に古民家を買って移住する」などと書き連ねていますが、こういう話を言葉で伝えている人は、ごくわずかなのです。
このブログは匿名ブログなので「思う」ことを好き放題「書き」留めていますが、現実では水面下の作業として進めているのです。
当然、場面々々で関わる人々はいますから、断片を知ってる人は多いですけどね。
たとえば、僕の移住計画の中に両親の介護問題が含まれていることは、両親にも兄弟にも伝えていません。
もし、このブログを本名で運営していたら、ここまで思ったことをそのまま記録できなかっただろうと感じています。
線分の両端に「思う」と「言う」があって、その間に「書く」があるとして、おそらく匿名だと「書く」が「思う」寄りになり、実名だと「言う」寄りに位置することになるんじゃないでしょうかね?
普通に生活していると「思ってるぶんにはなんの害もないけれども、口にした時点でアウト」ってこと、いっぱいありますよね。
「社会的にアウト」なことは、言っても書いてもダメに決まってるのですが、中には、そこまででなくても「ちょっとメンドくさいことになるな」程度のアウトもこまごまとたくさんあるのですよ。
「さほど仲良くないやつから興味本位の連絡が来る」とか「やたらとアドバイスしたがるやつが登場する」みたいな感じですね。
このブログを匿名で書いている理由はそれだけじゃありませんけどね。
(参考:「ま、いいか」で書き続けられるのが、匿名ブログ)
でも「思う」だけではもどかしくて、なんらかのアウトプットができたほうが頭の中が整理できるのですよ。
そのために、こうして独りでできる「書く」は、何かと便利だし、「思う」寄りの「書く」が可能な匿名ブログは、さらに使い勝手が良いように感じるのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。