140文字で語れることを、2,000字に膨らませることの意味
2020.08.04
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。「神は細部に宿る」という有名な言葉がありますが、その細部を認識することがやっかいなのですよ。自分でも気づかないほど「どうでもいい」ことだからこそ「細部」なのです。文章を冗長化させる行為には、細部を見つけ出す効果があると思うのです。
毎朝、tweetで済みそうな内容を膨らませているのです
毎朝、こうしてブログを書くことが習慣化しています。
起き抜けに、なんとなく思いついたことや、前日に「そうだ、明日は荒れについて書こう」と思いながら眠りについたことがあればそれについて書くし、当然「はて、今日は何を書けばいいんだ?」と何も思いつかずに、他人のブログやSNSからお題を拝借することもあります。
たいてい、twitterの140文字で伝えられる程度の内容しか思いついていません。
以前「毎朝のブログは、お風呂の鼻歌のようなもの」という記事でも書きましたが、毎日なんかしらの創作活動的なことをやってることが目的化しているのですよね。
自分の中で「2,000字から3,000字くらいの間で収めよう。3,000字を超えるのはアリだけど、2,000字に満たないのはナシね」などというルールを設けています。
なんでそうなったのかは、よく憶えていませんが、このブログを開設したころに「ブログサイトの運営の仕方」的なブログ記事を読み漁っていた時期があって、その中に「ひと記事2,000字程度は書こう」みたいなことを書いてる方がおられたんじゃないかな?
その根拠は忘れてしまいましたが、とにかく「ヨシ、オレも2,000字以上書こう」ってことにして、いまだにそれを続けているのです。
毎月初に定期コンテンツ化している「運用報告」をご覧いただければおわかりいただけるように、大したアクセス数を稼げていないので、効果のほどは謎ですね。
このように1回のtweetで済むようなことを、毎朝2,000字以上のブログ記事に膨らませる行為をし続けているのです。
世の中で求められているのは逆で、数千数万字を要しそうな内容を適確に数百文字で伝える、できれば140文字でtweetするような技術だと思うのですよ。
僕が毎朝やっていることは、それの真逆のことなのですね。
枝葉末節に思い至ることの大切さ
自覚はしているのですよ。
半分寝ぼけながら、ちゃんとした構成もせず冗長で論旨もいいかげんな、読みにくい文章を僕は書いています。
過去に投稿した記事を読み直すこともあるので、よくわかるのです。
ときおり「ちゃんと推敲を重ねて、頭がクリアなときに投稿したほうがいいんじゃないか」などとも思いますが、そんなことを始めてしまうと恥ずかしくてとても公開などできなくなってしまうと思うのです。
おそらく「下書き」を溜め込んでしまうことになるはずなのです。
だから「いいかげんな悪文でも構わないから、毎朝2,000字以上の記事を投稿する」ことをルール化していたし、現在では習慣化しているのです。
同様に140文字程度で語れることを、2,000字に膨らませることの意味も、それなりにあると考えているのですよ。
文章を膨らませるために、ずっと「連想ゲーム」を続けているのです。
おそらく多くの方は「連想ゲーム」って、なんのことかご存知ありませんよね。
連想ゲーム:
『連想ゲーム』(れんそうゲーム)は、1969年4月から1991年3月までNHK総合テレビで放送されたクイズ番組である。
出展:https://ja.wikipedia.org/wiki/連想ゲーム(2020年08月04日現在)
提供されたワードから、次々と関連するワードを連想し答えながら、最初に設定されていた正解にたどり着くというクイズ番組ですね。
正直、この番組を観たことは数えるほどしかありません。
でも現在50代半ばの僕世代の人は「ブレーンストーミングやろうか」みたいな感じで「連想ゲームしよっか」とか「頭の体操やりますか」みたいな言い方をしますよね。
これをやることで、どうでもいいような枝葉末節な事柄を思いついたりするのですよ。
この「どうでもいい」ことをいっぱい認識することが大切だと思うのです。
僕たちは普段生活していると、重要なことなどさほどなくて、このどうでもいい枝葉末節に囲まれているのです。
認識することすら困難なほど、取るに足らないことの集積によって日々の生活はなりたっているのですよね。
それを「140文字程度で語れることを、2,000字に膨らませる」過程で気づくことができるのです。
「神は細部に宿る」の細部をみつける
有名な言葉に「神は細部に宿る」というのがあります。
どうせなら出典もつけようかと思ったのですが、誰が言った言葉なのか、諸説あってはっきりしていないんですね。
解釈も様々なようです。
僕はなんとなく「細かいところにこだわってこそ仕事全体の本質が決まる。ほんの些細な違和感が全体のバランスを台無しにしてしまう」みたいな捉え方をしていました。
ざっくりいえば「こまかいとこに気を配ろうね」ということです。
ただ、前項でも述べたように、この「こまかいとこ」がなかなか認識できないのですよ。
だって「どうでもいい枝葉末節」なんですもん。
「これこそが、気を配るべき細部だ」と認識できるような部分って、さほど「細部」ではないのです。
まだ気付いていない「こまかいとこ」を探し回らなきゃいけないんですよね。
たとえば、昨日会食が催されたレストランで出されたメニューは憶えてるかもしれないけれども、器の柄や箸の色。玄関の上がり框の材質、廊下の照明なんて、なかなか思い出せるものではありませんよね。
でもそのレストランのオーナーさんにとっては、ひとつひとつが何らかの意味を持っているはずだし、僕がそこに招かれて、そのひとつひとつに触れたことにも意味があるはずなのです。
「2,000文字に膨らませる」とは、少しでもそういうものに気付きたいという行為なのですよね。
電話をしながらメモを取るとき、いつもなら使わないペンを手に取りました。
そうしたことには、何らかの意味があったはずなんですよ。
それは誰にもわからない。そういう行為をした僕自身にわからないのだから、他人にわかるはずがありません。
でも、そういうことが無数に集まると、僕自身の思考に影響を与え始めるだろうし、行動にも反映されるのです。
「どうでもいい枝葉末節」が集まって、僕ができてるんですよね。
こうした出来事って、140文字で何かを伝えようとする場面では削られてしまいます。
無理やり2,000文字に膨らまそうとする過程で、ようやく見つかる「細部」なのですよね。
もちろんこうして見つけ出された「細部」なんてほんの一部で、気づかないままに僕の人生を変えてきた「細部」が無数にあるはずなのです。
せっかくこうして毎朝ブログを書く習慣を獲得したのだから、これまでに気づかなかった「細部」を少しでもいいから発見できればなあ、と思うのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。