やる気なくてもやるようになってからが、習慣
2020.12.21
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。このブログも、そろそろ1,000記事目が視野に入るところまで継続してきました。とくに「さあ書くぞ」なんてやる気を出すことなく、朝起きたら何も考えずにPCに向かうことが完全に習慣になっているのです。習慣は自分に変化をもたらしますよ。
通過点に過ぎません
おそらく、来年の1月には投稿数が1,000記事を超えるし、2021年4月9日にはこのブログを開設してから1,000日目を迎えます。
こういうときに必ず自分に言い聞かせなくてはならない言葉が「これは通過点に過ぎません」ですよね。
この記事が、968本目の記事です。
このブログを制作するためにWordPressというオープンソースのCMS(Contents Maganement System)をサーバーにインストールして使っているのですが、その「ダッシュボード」というページを見れば、これまで何記事投稿してきたかがわかるようになっているのです。
実は900記事超えてきたころから「このまま毎日書き続けたら、あと3ヶ月ちょいで1,000記事に到達するじゃん」なんてことを意識し始めていました。
開設したばかりのころは「とりあえず、何も考えずに100記事書いてみよう。それが目標がだ」なんて考えていたんですけどね…。
(参考:創造は「質より量」だと仮定する)
1,000記事を意識し始めると、あたかもそれが「目標地点」だと勘違いしはじめちゃうんですよね。
とくにそれに向けて頑張ってきたわけでもなく、アクセス数でも収益でも、思い通りの成果を上げられているわけでもないのに、何かしらを成し遂げようとしているような感覚になってしまうのですよ。
「ちょっと危険だな」と感じています。
本当は1,000記事にも1,000日目にも価値なんてないんですよね。
そんなことよりもむしろ、朝起きて顔を洗う前に「今日は何についてブログ記事書こうかな」から頭を動かし始める習慣がついたことが、僕にとっては大切なことなのですよ。
とりあえず、朝一番に何らかのアウトプットをし続けていることが良いことなのだし、それを欲している自分は、開設時とくらべて変わった姿なのです。
コストパフォーマンスで考えると、かなりグダグダですけどね…。
どうせ無職で暇なので、こんなもんでいいのです。損得で評価しなくていいのが、セミリタイア人の楽なところなのです。
(参考:この暇、つぶすことを求めていないのです)
開設したばかりのころは、どこかしらで「承認欲求を満たそう」とか「お小遣い稼ぎになるといいな」なんてことを考えていて、それは今でも皆無になったわけではないのですが、いつしか、ただ自分の頭を整理するための時間になってることがありがたいんですよね。
その過程で頭を整理するためのパーツが足りなかったり、うまく整理しきれなくて、そのままの状態がブログ文となっていることが多々ありますけどね…。
こうしてブログを書き続けていることの「価値」があるとすれば、毎朝必ず自分が考えていることを言語化してみる習慣ができたってことでしょうね。
習慣になってしまった以上やめる理由はどこにもないので、おそらく1,000記事を超えても1.000日を超えても継続するんでしょうね。
だから「通過点」なのですよね。
さほど「これからも頑張るぞ!」っていう意気込みは含んでいないのです。
とくに「やる気」なんてありません
「やる気になって」「頑張ってる」感じのときって、決して習慣化できてるとは言えないんですよね。
自分に「これは大切なことだ」「これを乗り切ることが成長につながるんだ」なんて言い聞かせながらやることって、結構ツラいのですよ。
ツラいままだと、長期的に継続することは困難ですよね。
僕は朝ランもかれこれ10年くらい絶やしていないので「習慣」と言っても差し支えないのでしょうが、若いころはとにかく自分を鼓舞しながら、ひと月とか3ヶ月とか継続し「○キロ絞る」とか「腹筋を割る」みたいな目標に達したら辞める…。そして数ヶ月後・数年後にまた再開する、ということを繰り返していました。
これは、一時的な生活改善であっても決して「習慣」とは言えませんよね。
やってるときはキツかったし…。
習慣になるということは、それが自分のアイデンティティのひとつになるということなのだろうと思います。
たとえば僕はずっとデザイナーを生業にしていたので、毎日デザイン業務に勤しむに決まってるのですよ。
そりゃ「ツラい案件」はあっても、「デザインするのがツラい」なんてことはありません。
休みができてもデザインに関することをして暇をつぶしていましたしね。
(参考:フリーランスの僕が暇な時にやったこと)
職業のみならず「読書家」と呼ばれる人は、本を読むことを目標になんてしませんし、「さあ読むぞ」なんて気合を入れたりもしません。
同じように、僕もいつしか「さあ朝だ。ブログ書くぞ」なんてやる気を出したりすることもなくなりました。
書こうとして「あれ? 何も書くこと思いつかないぞ」って日はありますけどね。
「ブロガー」って言っちゃうと、ブログで稼いでメシのタネになってる人のことを言うんでしょうから、そりゃまた少し違うのでしょうが「ブログを書くのが習慣になってる人」にはなってますね。
自分でも認識していなかったことが言葉になることがあるのです
ホントはこういう記事って「目立たく本日1,000記事目を迎えました」みたいな日に書くのがいいと思うのですよ。
でも、先日投稿した「2020年12月Googleアップデート。ちょっと元気が出てきた」で、
僕のような決して豊かな才能に恵まれているわけではない凡人は、創造よりも批判や欠点探しのほうが、楽だったり心地よかったりします。
でもこれから老いていく自分を想像するときに「人の悪口ばっか言ってるジイさんになりたくないなあ」とか「自分が上手く行かないのを、社会や制度のせいにしながら生きて行きたくないなあ」などと思うのですよ。
批判やアラ探しを娯楽とする自分になっていくことに抗い続けたいのです。
それでなくても人の脳は、加齢とともに我慢が続かなくなったり、怒りっぽく僻みっぽくなっていくようですからね。だから、ヒドいものを量産しようが、つまんなさ過ぎて自己嫌悪に陥ろうが、Googleアップデートにアクセス数を左右されようが、とにかく何かしらをアウトプットし続ける必要があるのです。
なんてことを書いているのですよ。
本題は「Googleのコアアップデートがあって、少しアクセス数が増えた」って話なのですが、最後に勢いで書き足した文章だったのですが、これを書きながら「あれっ、オレこんなこと考えてたっけ?」「いや、確かに考えてる、ちゃんと言葉にしてないけど、いつも頭の中にある」みたいなことを考えてたんですよね。
おそらく、こういうのもブログを書くことが習慣化したことの効能だろうと思うのです。
なんだかんだ言いながら、習慣化するということは自分が変わること、アイデンティティのひとつが追加されることなんだな、と感じたので若干フライング気味ではありますが「そろそろ1,000記事に到達するよ」という記事を改善てみました。
ただ、僕は定期的にこういうことを考えるクセがあるようです。
過去記事を検索してみたら、似たような記事が出るわ出るわ…。
たとえば「アウトプットする習慣を持つことの意味」とかね。
ま、このへんは成り行きに任せましょ。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。