言ったこと書いたことで、いちばん影響を受けるのは自分
2021.03.06
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。こうして毎朝ブログを書いているのですが、たぶんこのブログにいちばん影響を受けてるのって、僕自身なんですよね。自分が書いた言葉って、わりと頭の中に残るものなのですよ。何を書くかによって、数年後の自分の仕上がりに影響があるはずなのです。
この人、こんな人だったっけ?
SNS上で友達になってたり、フォローしてた人がやたら芸能人・財界人のスキャンダル、政治家の発言・失言に言及するようになり、短期間でその人のタイムラインがそれ一色になっていく様子を見たことが何度かあります。
ほぼ例外なく、発言内容が先鋭化して過激になっていくんですよね。
数年前までは「猫がティッシュペーパー引き出して散らかしてた」とか「自転車の新しいパーツ買った」みたいな、何気ない生活の様子を投稿してた人だったりするんですけどね。
それが一過性のことならば、傍から見ててもなんとも思わないのですが、類が友を呼んでしまい「〇〇が許せない」「◯◯が気に入らない」と四六時中、怒りの対象を求め続けているようにすら見受けられるんですよね。
あまりひどいときには「友達から削除すべきか」「アンフォローすべきか」なんてことを思ったりもしますが、とくに実害がない限りはそのままにしています。
たぶん、その人にとってはそれが正義なのだろうし「みんなももっと、思ってること言えばいいじゃん」「もっと声を上げようよ」みたいな思考になってるのでしょうしね。
それはそれで、その人の勝手なのでとやかく言うことでもありませんしね。
僕は、遠くから「前はこんな感じじゃなかったんだけどな…」と感じるのみです。
僕も時事問題、関心ないわけじゃありません
じゃあ僕が、巷で話題になってる問題、最近ならば森喜朗元東京オリパラ組織委員会々長の発言にまつわる問題とか、総務省と東北新社・NTTの接待問題とかに関心がないのかというと、そんなこともありません。
芸能人の不倫や薬物問題に関しては、さほど興味はありませんけどね…。
ニュースをネット上で読んだり、用語の使い方に疑問のあるときにはググったりしつつ、それなりに追いかけているトピックはあります。
なんせ無職なので、暇はいっぱいありますからね。
当然「なんだこいつ、気に入らないな」とか「こりゃヒドすぎるな、法体系に問題あるだろ」みたいなことも感じますし、それなりに義憤めいたものを心に宿すこともあります。
ただ、これをブログに書いたり、SNSで発信することはまた別なんですよね。
ほんのちょっとだけ「自分が発信するものに関しては、世界観をコントロールしておきたい」という意思もあります。
同じくらいだけ「面倒くさいやつを引き寄せたくない」という気持ちもあります。
誤った解釈で、誰かに何かに迷惑をかけることになるのも嫌ですしね。
とくに相手が「政府」だとか「財界」「有名人」の場合は、必要以上に強い言葉を発しがちなのですよ。
SNSなどを見ていると、いかに汚い言葉で罵倒するかのコンテストみたいになってますもんね…。
誹謗中傷で訴訟沙汰にならない限り、そういう楽しみ方も「あり」ってことなんでしょうけどね。
自分の言葉に一番影響を受けるのは自分です
怒りや憎しみの言葉って、ほとんどの場合その対象には届きませんよね。
でも、自分自身には確実に届いてるのですよ。
だって自分が言ったり書いたりしてるんですもん、当たり前ですよね。
僕は昔から「巨悪に挑むべく、twitter上で辛辣な発言を」みたいなタイプじゃありませんでしたが、身の回りのことに関しては、怒りだったり皮肉だったり…まあ悪口ですよね。
そこそこ口にすることも多かったように思います。
限られた範囲内での行動ですけどね。
フリーランスになってからも、気心の知れた制作会社の担当に、ひとしきりクライアントや代理店に対する悪態をついた後に「ま、しょうがない。やっときますわ」と仕事に取りかかるのがルーティーンみたいになってた時期もあります。
こういうのって、自分自身が影響を受けるんですよね。
そのときは、ちょっとしたストレス解消みたいな感じだったんですけどね。
「へへっ、言ってやったぜ」と溜飲を下げて、それでヨシだと思っていたのですよ。
ところが、自分が「言った」、もしくはメールやメッセージで「書いた」言葉って、自分の脳内に残るんですよね。
今でも突発的に思い出して「うあぁぁあ」って、こっ恥ずかしくなること、あります。
どの案件で、誰の悪口として言った言葉なのかは、思い出せなかったりするんですけどね…。
どんなことを言ったかは、覚えてるものなのですよ。
もしかして、こういう言葉の蓄積が僕の「焼きが回る」のを早めたのかな? と思うこともあります。
悪口を言ったり、悪態をついたりするときって、そういう意見を表明するための言葉を探しますよね。
自分の怒りを適確に伝えなきゃいけませんからね。
一時的であれ、脳内の幸福度がガタ落ちしてるはずなのですよ。
一日中SNSに張り付いて怒りの言葉を発信し続けてる人って、その状態がデフォルトになってると思うんですよね。
書くことより、書かないこと
こうして毎朝、ブログ記事を投稿することを習慣にしています。
いつ決めたわけでもないのですが、できるだけ「怒り」や「悪口」、それと愚痴めいたことを書かないようにしようと思っています。
できれば「気分のいい朝」を過ごしたほうが、1日のはじまりとして爽快ですからね。
とはいえ、過去記事をざっと見てみても「苦手」とか「距離を取りたい」「関わりたくない」言葉を使うことも多いんですけどね…。
そういう場合は、なんとなく救いのある感じで話を丸めようと思っています。
前項で述べた通り、自分が言ったり書いた言葉って、自分の脳内に残るのですよ。
自分の言葉にいちばん影響を受けるのは、自分です。
だから「楽しいな」「快適だな」みたいな言葉を使いながら毎朝のブログを書きながら暮らしていきたいのです。
そうすると本当に気分が上がっていくものなのですよ。
そうすると「明日の朝も楽しいこと書かなきゃな」と、日常の中から気分のいいことを探しながら1日を過ごすようになるんですよね。
このブログが「怒りのブログ」だったら、おそらく怒りの対象を探し求めながら1日を過ごしていることでしょう。
いろんな媒体に目を通してみても「こんな悪いやつがいました」が、ニュース記事の基本スタイルですから、ネタには事欠きませんしね。
でもね。
毎日「楽しいこと」「嬉しいこと」を見つけながら生きるのと、「許せないこと」「阻止したいこと」を気にしながら生きること。
数年後の自分の仕上がりに多大な影響があると思うんですよね。
常時「意識高く」「ポジティブに」「未来を信じて」なんてのもなかなか困難ではありますが、ぜいぜい、
- 愚痴っぽくならないようにしよう
- 他人の悪口で記事を埋め尽くさないようにしよう
- 怒りをコンテンツ化しないようにしよう
くらいのことは、ちゃんと決めといたほうがいいのかな? などと思っています。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。