「足りない」を日常にするための二拠点生活
2019.06.04
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。現在進行中である二拠点生活のことを、心の何処かで「無駄なことをしてる」という認識を持っているのですよ。それでも、生活の中に「足りない」を作って、そこを埋める何かを自由に模索することが、今の自分にとって必要な時期だと思っているのです。
最寄りのコンビニまで、約1km(徒歩13分)
東京と山口県萩市を行ったり来たりの二拠点生活をしています。
東京にいるときと、萩市にいるとき、それぞれで違う何かをしているかというと、そんなことはないのですよ。
双方で淡々と日常の業務をこなしているだけなのです。
「環境を変えることによって、新しい発想を…」みたいな、大袈裟なことを目的としているわけではないのです。
強いて違いを挙げれば「足りているもの」「足りていないもの」の感じ方、これが今の僕にとって、影響を与えてくれ始めているような気がします。
かたや東京23区内、もう一方は山口県の日本海側の街ですから「違ってて当たり前」「そんなももの見なくてもわかる」ようなものではありますが、実際に移動しながら暮らしていると、それなりに「感じる」ところはあるものなのです。
たとえば、東京の作業場から最寄りのコンビニまでは約200m(徒歩3分)なのですが、萩の作業場の最寄りのコンビニは約1km(徒歩13分)。
Google Mapのストリートビューで見ればすぐにわかることですが、田舎のコンビニには、店舗よりも大きな駐車場がついていますし「ここ、歩行者が通るところですよ」とばかりに路面に横断歩道がペイントされてたりします。
こういうところにピントが合ってしまうのですよ。
萩に移動してきているときに「え、コンビニまで1km…。全然コンビニエンス(=便利)じゃないじゃん」と思うのは、東京にいるときに「足りているもの」に気づくからなのですよ。
そして、駐車場の中を通り抜けながら店舗に向かいながら「みんな車で移動することを前提としたコンビニエンスなんだろうな」みたいなことを考えたりするのです。
事実、コンビニまでの約1kmの間、まったく歩行者とすれ違わなかったりしますからね。
ん〜。僕の筆力のせいですね。文字にすると「そんなの当たり前じゃん」「いちいち書かなくてお知ってるよ」としか思えませんね…。
「実際に現場に足を運んだから」ではありません。「自分の生活の場として、行ったり来たりしているから」こそ、そういう「当たり前」が鮮やかに感じられるのです。
まだ東京に「日常」があるのです
二拠点生活を開始したのが、2018年9月。まだ10ヶ月程度しか経っていませんし、毎月往復できているわけでもありません。まだ、東京にいるときのほうが「日常」なのですよ。
作業環境にしても「足りている」のは、東京の作業場の方なのです。
萩の作業場に移動するときには、最低限の機材を持って移動しているだけなのですから、当然のことです。
こうして、二拠点生活をしながら「東京の作業場のほうが満たされてるな」という、とても当たり前なことを確認しているに過ぎないのです。
それでも、日常にちょっとした変化をつけてみたくて。「移動」という手段をとることで「何が不満で」「何がどうなれば満足なのか」について、自分の中で折り合いを付けたいのですよ。
[二拠点生活]移動欲求ってあるかもね
50代半ばという、僕の年齢が関係しているのかもしれません。
オッサンになったし、フリーランスになって20年以上も経ったし、自分の周りのことが、なんとなく自分サイズに最適化されてるのですよ。それなりに満たされているのです。
もちろん、自分なりにそういう景色を求めてきた結果なのですが、だんだんと飽きてきちゃうんですよね。
満たされてはいるけれども、豊かではないのですよ。
「足りない」を埋めようとするエネルギー
二拠点生活をすることによって、まさに「何もないところ」というべき、田舎の風景に接しています。
昭和40・50年代に農地を縫うように開発され、そのまま時を経て型くずれした住宅地が広がるエリアに「萩の作業場」はあります。
萩市といっても「歴史・文化」の香りがする、特色のある地方の風景の中に身をおいているわけではないのです。
それでも、近所を散歩する道のりや、窓から見える景色の鮮明さや、鼻をくすぐる香りに驚くことがあります。
萩の作業場にいるとき、どこかしらで「足りない」を感じているのだと思うのですよ。
それは、自分サイズに最適化されて、それなりに満たされた東京の作業場との比較から感じる「足りない」なのです。
最適化されている状態とは、僕が選ぶべき時間やモノが身の回りに配置されている状態のことです。
萩にいるとき、僕の環境は最適化されていませんから、その「足りない」を何かで埋めようとするんでしょうね。
選んでもいいし、選ばなくてもいいような曖昧なものがとてもよく目につくのです。
「もしかして、こういう状態の方が豊かなんじゃないか?」と思い始めているのです。
人生の転換期に選んだ行動なのですから「そうあって欲しい」という願望も含まれています。
ただ、それ以上に「無駄なことをしている」という認識が「豊かさ」をもたらしてくれているようにも思うのです。
「足りない」を埋める何かを自由に選ぶ
冒頭にも書いたように、僕の二拠点生活は交通費を負担しながら、東京と萩の双方で「淡々と日常の業務をこなしているだけ」なのです。
このブログのいろんなところで、二拠点生活について記録していますし、それなりの目的や意味付けもしているのですが、一方で「無駄なことをしてる」という認識も持っているのですよ。
(参考:「二拠点生活」タグを付けられた記事の一覧)
これまでの東京生活の中で、いろいろと硬直化していると感じているのですよ。
よく言えば「たゆまぬ努力のたまものとして、満たされてる」のでしょうが、反面「限定的かつ固定的」になっていて、ずっと同じところに焦点が合い続けているような感じなのですよ。
自分が望んだ結果なんですけどね。
50歳を超えたころから「なんかヤだ」と感じ始めているのです。
こうして二拠点生活を始め、定期的に田舎に移動することによって、焦点をボカすような効果を感じています。
「足りない」を埋める何かを、これから自由に選べるような気がしているのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。