移住だってセミリタイアだって、失敗するに決まってる
2019.08.23
最終更新日:2020年07月29日
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。「セミリタイアだ」「田舎に移住だ」と言っていますが、失敗するに決まってるのですよ。多くの失敗の中から、少しの成果を拾い出して「上手くいったぞ」と言い張るゲームに臨んでいるのです。動き続ける風景に対応し続けられればそれでいいのです。
先日「セミリタイアを失敗するとき」という記事を投稿したように、今始めようとしていることが、すべて上手く行くとは思っていないのですよ。
むしろ「なんかしら失敗しちゃって、またドタバタが始まるんだろうな」くらいに思っているのです。
「失敗するに決まってる」と思うことは、それほどネガティブな考え方じゃありません。
むしろ失敗を前提にしているのです
こうして「セミリタイアを始めたよ」「デザイナーの仕事を辞めることにしたよ」「田舎に移住するよ」という内容のことをブログに書き続けてきているのですが、話を組み立てるのに、昔の話を思い出して、それを下敷きにすることも多いのです。
その場合、たいてい20数年前のサラリーマンをやめてフリーになったときが、今と同じく「人生の転機」感が強かったものですから、そのころの話を引き合いに出すことが多々ありますね。
(参考:フリーランスになったころの失敗を記して、平成時代を後にしよう)
最近は、もっと昔の「中学から大学までスポーツ(バレーボール)をやってきた体験」も僕の人生に大きな影響をもたらしてくれたのだと、強く感じているのです。
その最たるものが「最初っから上手にできるわけないじゃん」が身に沁みついていることなのですよ。
人は誰しも、失敗なんてしたくないのです。
それでも人生において、何度も「うわ。オレもうダメだ」と打ちひしがれるような失敗に見舞われることになるのですよ。
それを何度も経験してやっと「失敗しても大丈夫。大切なのはリカバリー」というマインドを得られるのです。
「失敗するに決まってる」という前提で何かを始めるくらいで、ちょうどいいのですよ。
スポーツをやっていたときは、とにかく失敗をたくさん経験することができました。
特に大学時代には、全日本選手が数名いるようなリーグであり、チームでしたから、何の失敗をしていなくても、イメージ通りに事を運んだとしても、自分が「まったくの役立たず」であるような場面に何度も遭遇したことがあります。
「自分の身に起こることは、すべて自分の責任」だとそれらと向かい合うしかないのですよね。
そして成功体験を積み重ねて、上位のカテゴリに行けば行くほど周囲のレベルは上がりますから、失敗体験は増すのです…。
でも、何度も失敗体験を繰り返すと、
- 失敗はそれほど重要じゃない、大切なのはリカバリ
- 失敗は終わりじゃなくてスタート
- 手数を打つことによって、成功体験を作る
みたいなことを「知識」として持つことができるのです。
「失敗」を前提にものごとを始められるのです。
「今まではこれで上手くいった」が通用するはずない
人は皆「自分のことが好き」なのですよ。
特に「自分が好きなことを考えている自分、自分が好きなことをやってる自分」が好きなのです。
だから「自分が好きなことをやろう」と思うのですよね。
僕が「セミリタイアしたい」とか「田舎に移住したい」とか思っていることも、それなのです。
同時に「過去の自分」も好きであろうとしますよね。
そのため自分の経験を肯定したいし、自分が歩んで来た道を「これが正しかったんだ」と主張したくなるものなのですよ。
事実、僕もこうして「つらいけどスポーツやっててヨカッタ」「フリーになったときもいろいろつまずいたけどタダシカッタ」という文章を書いているのです。
まあ、人間ってそんなものなのですよ。
ただ、大雑把な表現をすれば「景色は動いている」のです。
使っている技術も、周りの人々の考え方も、僕が「スポーツをやってたとき」「フリーランスになったとき」とは大きく違っているのです。
何も起こっていないように感じるときでも、景色はずっと動き続けてきたのですよ。
なんとなく、これを感じていたから、こうしてセミリタイアして、デザイナーを辞めることを決めるに至ったんですけれどね。
当然「過去の捉え方」も動き続けています。
なので、僕はおそらく「また失敗するに決まってる」のですよ。
「死ぬまで努力し続ける」っていうと大げさだけど
それなりに失敗を回避するような、かつ新しい価値に出会って喜びを増幅するような「準備」や「工夫」はしています。イメージ作りというか、皮算用の範囲ですね。
特に「このように失敗したら、こう対処する」ようなシミュレーションは綿密にはしていません。
なんとなく想定している「失敗」は、
- 資金計画の失敗
- 承認欲求が満たされない
- やることなすことつまんない
のようなことなのですが、ほぼフリーランスになったときと同じような想定なのです。
このあたりは、冒頭で紹介した「セミリタイアを失敗するとき」でもふれていますので、ご参考に。
前項で書いたように、風景は動き続けています。
「あれ? この状況マズいな」と感じたときに、その都度対応するしかないと思っています。
もちろん、ずっと、
- 失敗に対応するための準備
- 技術や考え方の変化への対応力の保持
- 自分を成長させるための学習の習慣
などは、継続していくつもりなのです。
そのために、ずっと趣味程度でも構わないから、職業人であり続けたいと思っているのです。
(参考:[フリーランスの老後]遊ぶともなく、働くともなく)
スポーツにしても、仕事にしても、おそらく趣味にだって「心地よい力(リキ)み」みたいなものがあると思うのですよ。
それは、自分の成長を感じられたり、目の前で起こる変化に上手に対応できるための「力(リキ)み」だからこそ、心地よく感じられると思うのです。
「死ぬまで努力」というと、少し大げさな感じはしますが「心地よい力(リキ)み」は持ち続けたいと思っているのです。
「この先、何度も失敗するに決まってるし、それでもどうにかこうにか対応できるんじゃないかな?」くらいで、ちょうどいいのです。
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