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飲み会で「田舎暮らし」について語ったら、考え方を補強された

2019.09.12

最終更新日:2019年10月04日

こんにちは、萩ドットライフ()です。

田舎暮らしについて飲み会でガッチリ語ったのって、初めてだったんじゃないでしょうかね。驚いたのは「結構みんな興味もってるじゃん」と。群れから離れつつある僕の近況報告のつもりが、いつのまにか、僕が考え方を補強される結果になってしまいました。

ブログ書き書き、考えをまとめててよかった

たぶん新年会ぶりかな? ゴールデンウィーク近辺にもなんかしらあったっけかな?
久々に仕事仲間との飲み会に参加してきました。

セミリタイアするために「新規案件は、もうこれで止めてください」とお願いをして以来、運用案件がクローズするたびに仕事も減り、仕事仲間との連絡回数も減り、人間関係も薄まりつつある中での飲み会でした。

僕の心はもうすでに仕事から離れていますから「無駄な時間」でした。
でも、会話に混ざって、損得なしでただひたすらに仕事を中心としたもろもろについて語れる「楽しい時間」でもありました。
無駄ではあっても、無価値ではなかったのですよ。とても有意義だったのです。

そして、何人かは「二拠点生活」や「田舎への移住」「セミリタイア」などに関心を持ってくれていました。
僕は「みんなも、やってみたほうがいいよ」などとは言わずに、淡々と「やり始めたこと」「これからやろうとしていること」「考え方」を語ることに終始しました。

こうして、ブログを書くことによって、言葉を作る練習をしていてよかったと思います。
そして同時に、文章として書いていることを「ときには音声にしてみることも大切だな」とも感じました。

話すことによって、相手から思いも寄らない質問がやって来ますし、想定もしなかった膨らませ方、たとえ話をする人がいて、僕の考えの足らなかったところを気づかせてくれたり、ストーリーを補強してくれたりするのです。

「たまには、こういうのいいな。東京の人たちとの縁も残しとかなきゃな」と思っています。

僕は、ときどきこのブログ内で「人間関係の断捨離」というワードを使いながら、いったん人間関係をミニマム化しようとしているのです。

「とりあえず、今いる仕事仲間からはいったん距離を置こう」と、

といった記事を投稿していたこともあります。
それを「それほど頑なである必要もないな」と感じさせてくれる程度には、有意義な時間でした。

「効率を求める」ことをやめてみる

僕は「何を考えるのか」「どう考えるのか」まで含めて、いったん「ゼロに戻そう」と考えているということが分かったのですよ。

ゼロに戻す」というのは、以前投稿した「準備作業としての、セミリタイアとか長期休暇とか」で書いたことです。

いったんゼロに戻す工程ってあるのですよ。
たとえば、お風呂掃除だったり、キッチンの片付けだったり。運動部経験のある人ならば、グラウンド整備とかコートのモップ掛けとか。
「やり終わった状態」ではなくて「やる前の状態」を作る工程ですね。

僕は、長年の都市生活によって、効率の悪さにストレスを感じるようになっています。
たぶん、そう思い込んでいます。

仕事で絡んだ人のポンコツぶりやら、役所で書かされる書類の無駄っぷり、メーカーに問い合わせるときの「番号を押してください」的な誘導…。
人間関係やら、商品・サービスの不出来。どうでもいいことに「非効率」だという理由で腹を立ててるのですよ。

でも、本当は「効率を求めること」がストレス源なんじゃないですかね?
自分が使える時間を必要以上にクロックアップし過ぎて、バテが来ているような気がしているのです。
仕事においても、生活においても、人間関係においても、です。

だから、いったん仕事を辞めて、山間地の不便なところで生活してみようかと気になっているのだと思います。

これ昨日の仕事仲間との会話の中で、ぼんやりと浮かんだ仮説です。
実際に、仕事から離れて、数年間山の中で生活してみなきゃ答え合わせはできませんが、なんとなくそう思ったのです。

原始的で非効率な感覚を、もういっぺん自分の中に取り入れて、その状況で思いつくこと、考えが至ることを大切にしてみたいのですよ。
もちろん「原始的」も「非効率」も耐えられる限界があるでしょうから、せいぜい「ネット環境のある山間地生活」くらいのイメージしかできませんが、それでも僕にとっては初めての生活環境なのです。

「生活のリズム」を自然に任せる

ゼロに戻す作業は「リズムの修正」でもあると思うのです。
社会に出てから30年以上「仕事中心のリズム」「都市の風景」の中で生活してきました。

「動物としての人間が持つ、本来の感覚」みたいな言葉がありますが、たぶん僕はそれを体験したことがありません。

それでも、なんとなく田舎暮らしをすると生活のリズムが変わるような感じはします。
それが「人間本来の…」かどうかを判断するチカラは僕にはありませんが、人生の一時期、それを試してみる価値はあると思っています。

僕は現在50代半ばです。「便利」にまみれた都市生活を離れ、大きく生活環境を変えることに耐えられる体力を残している期間は、あと20年程度だろうと思っています。

僕は今、東京と山口県萩市の二拠点生活を送っています。どちらにいても朝ランの習慣があるのですが、東京にいて木場公園や隅田川沿いを走るのと、萩市で、山の麓からスタートして、川を渡り、城下町を抜け海岸沿いを走るのと、少し感覚が違うのですよね。

両方とも、樹々のある場所、大量の水を目にする場所を選んでコースにしているのですが、萩のコースの方が「落ち着く」のです。
東京のように、きちんと整備されたランニングコースではありませんから、途中で信号はあるわ、歩道を走ってたら急に途切れるわ、後ろから車が迫ってくるわ、にも関わらず。です。

たぶん「田舎だから」だと思うのですよ。「長閑(のどか)」って、そういうものだと感じるのです。
「足されるもの」と「引かれるもの」が、ちょっと違うんでしょうね。言葉になりにくいですが…。

「いろいろとコース変えてみよう」「途中歩いて、時間かかることになってもいいから遠くまで行ってみよう」と、走ってる途中で気が変わりやすいのは田舎のほうです。
歩を進めるたびに、自分に何かが加わって来ている感じがするのです。

子供のころ近所を歩きながら、花を観たり、きれいな石拾ったり、犬触ったりしてた感覚に似ています。

においも違いますよね。
「臭いにおい」とか「いいにおい」とかじゃなくて、視覚も加わって感じるにおいというか…。
大きな建物に邪魔されない空気に接してる感じのことを「におい」と思ってるというか…。

俗な言い方をすれば「五感がアレな感じ」なのだろうと思います。

とにかく「休む」

昨日の仕事仲間飲み会、冒頭で述べたように僕は、仕事の内容に関しては、指導めいたことを言うわけでもなく「オレならばこうしてるぞ」みたいなことも言わず、共感できることに相槌をうつ程度の参加の仕方をしていたのです。

ただ「『休め』とは言わんけど、『休む必要性』は感じといたほうがいいよ」「40歳超えたくらいでズドンとくるよ」という話は、わりとしつこいくらいにしました。

稼ぎどきの人に「休め」って言って、聞くわけないですもんね。
僕が言えるのは、

  • 休むことを気にはしてろ
  • 無駄な仕事(作業)すんな
  • 嫌いなやつから嫌われるのラッキー

くらいのものなのですよ。

ずっと「頭を働かせる」ことばかりを考えてきました。前述の通り「効率いい」が正義でしたからね。
「頭を働かせて、効率よく仕事ができれば、お金がいっぱいもらえる」だったのですよ。

それもいったん、捨ててみようと思っています。
とにかく休むことにしてみたいのです。

環境を変え、生活のリズムを変え、のんびりとリラックスした状態に身を置きたいのですよ。
そうすると過去考えたけれども放置されていることと、新しくゆったりと加わってくる感覚が、上手く融合してくれるような気がしているのです。

とりあえず、いったん「休む」ことに専念して、「効率は正義」という考え方を捨てて、ダラダラな生活をするフェーズを作りたいのです。
そうすれば勝手に、考えるべきことを考えはじめるし、やるべきことをやりはじめる。そんな感じなんだろうな、と昨日の飲み会で「オレはセミリタイアをして、田舎に越すんだけどさ」という話をしつつ、年下の仲間から知恵を補強してもらいつつ、こんなことを考えていました。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。