面倒くさいを克服する……つもり
2019.10.02
最終更新日:2019年10月04日
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。目の前の「面倒くさい」を克服しないと、次のフェーズに進めない状況に陥っているのですよ。人生において「面倒くさい」に阻まれて、行動する機会を逃すことってありがちですよね。人生の終焉をイメージするようになってから、認識するようになりました。
面倒くさいけど、断捨離を進めています
少しずつ、断捨離を続けています。
まとめてやると疲れるので、少しずつ分けて日課のようにしています。
先日「断捨離を実行することにします」という記事で書いたように、「ゼロに戻す」工程に取り組もうとしているのです。
(参考:準備作業としての、セミリタイアとか長期休暇とか)
まずは本棚の整理をしています。
- 出窓の上
- ローチェストの上
- 床の至るところ
に積み上げていた本の整理が終わり、ようやく本棚に着手できたところです。全体の50%程度の進捗でしょうか。
本棚は、15年前今のマンションに引っ越してきたときに、造り付けた壁一面の本棚です。
当時は「この棚を所有する本のMAXの量と決めよう、ここからあぶれたものは捨てよう」と誓っていたのですが、入居当初から収まりきらず、以降一度も整理できたことはありませんでした…。
結局、捨てていいものと悪いものを選び始めると、手が止まるんですよね。
今回は「もう紙本読まない」「また読みたくなったら、また買う」「全部捨てる」と決めているので、とても捗ります。
タイトルも見ずに、何の感情もなく、どんどん本を束ねては、何かのついでで1階に降りるたびに本をひと束持ってエレベーターに乗り、ゴミ捨て場に寄る生活をしています。
この数日で、
- 同じサイズの本を選んで積み上げてPPテープで縛るのが上手くなりました
- 指が千切れない程度の量で束を作る技術が培われています
面倒くさい。とにかく面倒くさい
僕が断捨離をしているのは、身の回りの整理をすることが目的でもありつつ、その先の「田舎暮らし」に話がつながるのですよ。
「田舎暮らし」って、移住した先で巻き起こるドタバタを想像する前に「大引っ越し」をしなければならないのです。
現在僕は、東京と山口県萩市を行ったり来たりする二拠点生活をしているのですが、バッグもしくはケースひとつで行える移動なのですよ。
それが「移住」となると、東京のマンションを引き払うということですから、15年ぶりの引っ越しをする必要があるのです。
それは、とても面倒くさいことなのですよ。
ただ、後述しますが、人はあまり自分が面倒くさがってることを認めたくないんですね。
- 「タイミングが良くない」
- 「すべて引き払う必要もないんじゃないか」
- 「失敗したときに後戻りできるようにするべき」
などと考えてしまうものなのですよ。
口ではよく「メンドくせえな、クソっ」とか言うくせに、自分が行動できずに、足踏みしている理由が「面倒くさい」ということにはしたくなかったりするのですよ。
なので、クソ面倒くさい出来事に向き合う前に、身軽になってモビリティを増してやろうと思っているのです。自分に対しての言い訳を封じるための断捨離でもあるのです。
自分には時間が残されていない
以前「自分を変える、環境を変える」という記事を投稿しましたが、50代半ばにして、インプットの質を変えようと思っているのですよ。
心のどこかに「人生、とっくに折り返してる。終わりが見えてる」と思っているのですよ。
若い頃には「人間なんて、みんな死んじゃうんだし」「そりゃいつかは終りが来るよ」などと、頭では解っていても、なかなか時間を大切にする動機には繋がらなかったのです。
それが加齢とともに、だんだんと「残されている時間の希少性」みたいなことを感じ始めるのです。
割と真剣に「時間の使いみち」を考え始めるものなのですよ。
そうなると、すこしずつ「面倒くさいを克服する」ことに対するモチベーションは高まっていくのです。
それを理由に足踏みすることは、もったいないと考えるようになるのです。
僕がセミリタイア生活を選び、デザイナーを引退することを決めたのもそこなのですよ。
「嫌な仕事」に触れている時間がもったいなかったのです。
「どうやったら、昔の好きな仕事に戻せる?」と考えるよりも「もういい。いったんリセット」とするほうが楽だったんですよね。
一度、人生の終焉(=死)を意識すると、日に日に緊急度は増していくのですよ。
1日生きれば、1日分、死に近づくのですから。
現実の飲み会とかでこういう話になると、必ず「50なんてまだ若いでしょ、辛気臭いなあ」という割り込みがあって、グズグズになりがちなのですが、僕が言いたいのは「残り時間をイメージすることって、行動を促進しますよ」ということなのですね。
まあ、とにかく、克服する、つもりに、なって、いるの…です
このように「人生の終焉」まで持ち出して考えなければならないほど、「面倒くさい」はメンドくさいのですよ。
とにかく「面倒くさい」を乗り越えるために、あれやこれやとストーリーをくっつけている最中なのです。
理屈では克服できないから、やっかいなんですけどね。
他人に対してもそうですよね。
「そんなに仕事キツいんなら、転職しなよ」「お店のホームページ作るよりも、先にSNSで発信したら?」みたいなことを他人に勧めても「面倒くさい」って答えられちゃうと、それ以上話ができなくなっちゃいますよね。
ただ、みんな「面倒くさい」という言葉は使わないのですよ。
自分がそう思っていると自覚したくないし、そう思われたくないのです。
だから「忙しい」「効率的じゃない」「○○さんに、こう言われた」などの言い換えられた言葉で返ってくるのです。
でも「面倒くさい」って、ニュアンスでわかるんですよね。
「なんだよ、結局メンドくさがってるだけじゃん」と。
他人の「面倒くさい」は、どうでもいいのですよ。
ただ、自分の「面倒くさい」は、きちんと認識して克服したいと思っているのです。
50代半ばになって、時間に限りがあることを強く感じるようになって「メンドくさがってるヒマ、ないぞ」と思うに至っているのです。
下手をすると「やりたい」と思ったことを、メンドくさがって、やらないまま人生を終えることになるのです。
「面倒くさいを克服する」は、人生を豊かにすることだと考えているのです。
だから、これからの人生、意識的に面倒くさいことを克服していくつもりなのです。
でも、どうしても「つもり」になっちゃいますよね。
だって「面倒くさい」ことは、メンドくさいんですもん。「できる限り」ってことですかね。
なので、まずはコツコツと本を捨てる作業に勤しみます。
本が終わったら、衣類・靴。そして法人分の書類と資料。家具、食器…。断捨離は続きます。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。