庭で根を抜きながら、思うこと
2020.10.06
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。庭いじりって、やろうとしてることによってはなかなかの重労働なんですよね。かなりの体力と集中力を要するし、平時とは少し違うものの感じ方や景色の見かたをし始めるのです。なんとなくランニングに近い行為なのかな? と思い始めているのです。
要領がつかめないことと、向き合っています
相変わらず、草むしりをして過ごしています。
前庭も裏庭も、ひととおり可能な雑草はすべて抜き終わり、文字通り「一度むしってしまった」雑草を根っこから取り除く作業にをしたり、地中で育っている球根を探し出して掘り起こしたりしています。
植物は取り除いても必ず再び生えてきますから、エンドレスなんですよね。
それに、今は秋なので庭が落ち葉だらけになっています。
隅っこの日当たりの悪い、湿った場所に溜まってる落ち葉を日の当たる場所に集め、乾いた落ち葉を定期的に燃やしたりもしています。
最近は、前庭に植えられている植栽を減らす(=伐採 or 抜根)ことをはじめました。
前オーナーさんが「わしゃ、こういうんが好きじゃけぇ」と定期的に広島のご自宅から訪れて手入れなさっていた植栽たちなのですが、やはり僕には少し荷が重いのです。
ただ一方で「自分が管理し続ける植物がある生活もいいものだなあ」とも思い始めているので、伐ったり残したりしながら自分にとって快適なバランスを探しているところなんですけどね。
この植栽の管理は、今のこの家の購入を決めるときからの課題だったのです。
(参考:他人の趣味と向き合う ― 萩市の古民家を買うことにしました)
ただ、生まれてこのかた庭いじりなんてすることのない人生だったので、なかなか要領がつかめないのです。
植物に対する知識も、庭いじり用の道具に関する知識もゼロから始めてますからね。
「庭いじり」と聞くと、お爺ちゃん・お婆ちゃんの趣味みたいな印章がありますが、この根を抜く作業なんてのは、なかなかの力仕事なのですよ。
当然、僕がビギナーなものだから、要らぬところにチカラを入れてるせいもあるんでしょうけどね。
やることによっては、なかなかの重労働ですね
昨日は「シュロ」を抜きました。
正確に言うと「シュロ」だと思いながら「シュロみたいな木」を抜いたのです。
ウチの周囲には、竹と同じくらいの高さに育ってるシュロが何本かあります。
気をつけてみているとこのエリア、シュロが多めのエリアなんですね。
うちの畑にも、小さなシュロの葉を付けた幼木が何本か生えていて、前オーナーが伐った形跡があります。
「シュロだ。育っちゃったら手に負えないから、今のうちに抜いとこう」と、1時間くらい汗だくで格闘しながら抜根しました。
結論から言うと、どうやらこれは「シュロ」ではなく「シュロチク」という別の植物のようでした。
なんとなく処分方法などをググっていて「ありゃ、これはシュロじゃなさそうだぞ」と気づいて「う〜ん、このシュロチクってやつっぽい」と感じているだけなので、本当に「シュロチク」なのかどうかも謎です。
シュロチク…なの?
とにかく、これを掘り出すのに約1時間かかったのです。
汗をボタボタ流しながら、終わった後には握力ゼロ。
なかなかの重労働でした。
地中で他の木の根っこと複雑に絡みあっていますので「ここは、こちら側の根を切るべきなのか? 別の木の根を切るべきなのか? はたまた掘り込めば抜けるものなのか?」パズルみたいになっているのですよ。
用いる道具も、剣先スコップ、バール、ロープ、片手鍬などなどを組み合わせながら進めていくのですが「どの場面でどの道具を使うべきか」も、作業しながら覚えていく感じです。
道具のチョイスと、地中のパズルがスパっと解けるようになったら、たぶん15分くらいで片付く作業なんじゃないでしょうかね?
慣れないことに集中すると、いいですよ
庭いじりをしているときって、当然ですがデジタルデバイスと向かい合っていません。
思いがけず破損することがイヤなので、時計も付けていません。
枯れ草や廃材の焼却をするときは、消火時間を計算に入れなきゃいけないので、そのときだけは腕時計をしますけどね。
そして、ものすごく集中します。
こうしてブログを書いていたり、家の掃除をしていたり、ときどき頼まれるWebサイト運用作業をしているときもそれなりに、集中しているつもりなのですが「いやいや、テキトーに自動処理で流しちゃってるでしょ」と気づくくらいに、庭いじりに集中します。
その理由のひとつに「慣れていないから」ということがあるのは、間違いないでしょうね。
もうひとつは、繰り返しになりますが「デジタルデバイスから離れてるから」ですかね。
「カラダを動かしている」というのも、なかなか効いているような気がします。
ランニング中と似ているかもしれません。
なんとなく、僕が長らくランニングの習慣を持ち続けている理由が見えてきたようにも感じます。
ランニングも、何回も同じコースを走っていたとしても「慣れる」ってないんですよね。
自分の体調なんて毎日異なるし、同じ道を他人も走ってるし、公道ならば信号があって車や自転車もやってきますからね。
無心になりつつも、感じること、考えることっていっぱいあるんですよ。
そして、平時(=たとえば、作業場でPCに向かいながらあれやこれやの作業をしているとき)とは違ったモノの感じ方をしている自分に気づくことって、多々あるんですよね。
おそらく、僕はこうして自分の感受性をキープする練習をし続けてきたんだろうと思います。
それでも、こうして「さあ、ブログ書こ」とPCに向かっても「今のオレ、なんにも感じてねえな…。どうしよ」なんて朝はいくらでもありますけどね…。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。