ホントだ。見たいものが見えるんだ
2020.11.23
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。人生で何度目かの「ホントだ。人は見たいものが見えるんだ」を体験しています。違う言い方をすると、視界の中に入っているものでも見ようとしていなければ、認識できないってことなんですよね。そして「見たいもの」が自分の人格を形成するのです。
「萩にコウモリ、よくいますよ」
いま住んでいる家の配電や給湯器などなどの更新をしてもらった設備屋の人と「この辺に、コウモリいるみたいなんですよ」という話をしていたことがあります。
この家で暮らすようになって、人生で始めて天然のイタチと遭遇したこと。
ある日、庭に喉もと辺りを食いちぎられたネズミとコウモリの死体が放置されたこと。
などを話題にしつつ「ああいうの、イタチの仕業なんでしょうね」みたいな話から「ということは、この辺にコウモリがいるってことなんでしょうね。どのへんにいるんだろ?」みたいな話に流れていったんですよね。
そのときに設備屋さんがおっしゃったのが「萩にコウモリ、よくいますよ」だったのです。
僕は生まれてから高校を卒業するまで、ずっと山口県萩市で暮らしていたのですが、その間いちどもコウモリを見たことはありませんでした。
誰か近しい大人の口から「家を解体したら、蔵からコウモリが出てきた」みたいな話を耳にした記憶がある程度です。
なんとなく「この辺りにもいることはいるけど、頻繁に目にするような生き物じゃないんだろうな。山の方へ行けばいるのかな?」くらいの印象でした。
それから数十年のときを経て、はじめて耳にした言葉が「萩にコウモリ、よくいますよ」だったのですよ。
「夕方、鳥が飛んでると思ったら、よく見てください。コウモリだったりしますから」と…。
先日、たまたま夕暮れに坂道を自転車を押しながら歩いていると、上空を数羽の「鳥」が飛んでいるのが見えました。
そこでフと「…よくいますよ」を思い出したので、目を凝らしてみるとホントにコウモリでした。
よく見ると、鳥よりもちょっとバタバタしながら飛行していくんですね。
僕が子供のころにも、何度も何度も視界には入ってたのだろうと思います。
でも「コウモリかもしれない」というイメージがないものだから、コウモリが飛んでいることをずっと認識できてなかったのでしょうね。
ひとは、見たいものを見る
犬を飼い始めると、犬を連れてる人が目につくようになるという話を聞いたことがあります。
最初は「最近、この近所で犬を飼ってる人が増えたなあ」みたいな感じ方をするようですが、そういうことではなくて、自分が買い始めたものだから犬に関心が行き「目に入る」ようになるのだそうです。
いろんな動物が描かれたイラストを机の上に置いて、目を閉じる。
アタマの中で「象…象…」と念じてからまぶたを開けると、自然と象にフォーカスされる、という話を聞いたか読んだかしたこともあります。
SNSやネットニュースなんかもそうですよね。
「世の中不景気だ」と思っているときには、不景気そうな記事ばかりが目に飛び込んでくるし、僕のように地方移住したばかりの人の目には、それっぽいワードを含んだ記事が優先的に目に飛び込ん来ます。
だからいま僕は、あたかも、日本中の人が「田舎暮らし」や「セミリタイア」に関心をもっているかのように感じていますし、誰かに「萩にコウモリ、よくいますよ」と伝える機会をうかがっています。
改めて、ここ数ヶ月間で「見たもの」「考えたこと」を思い起こしてみました。
これまでの人生で何度も「人は見たいものを見る」という言葉を耳にしたことはありますが、今あらためて「まったく、その通りだなあ」と思っているところです。
その上「見たいもの」を見ると、そのイメージはさらに増強されますから、それによって僕の人格が変えられていくような気がしてるんですよね。
というか、数年前に「無職になろう。セミリタイアしよう」と思い始めたくらいから、どんどんと「見たいもの」が変わり始めて、それに応じて接する情報も、考えることも、行動も変わったという感じがはっきりとあるのです。
もうちょっと若い頃から、この意識を強く持っていたら、もう少し違った人生を歩めたのかもしれないな? などと思いますし、ずっと「見たいもの」を見続けた結果がいまの自分を作ってるんだろうな、とも思います。
どうせなら、楽しくなるものを見ようかな
前項でSNSやネットニュースについて、ちょっと触れましたが、僕の友人・知人の中にも「これ面白そう」「ここ素敵な場所だった」「こんなの好き」と、嬉しさ楽しさを共有してくれる人もいれば、常に何かを・誰かを批判・非難している人もいます。
おそらく、それが彼・彼女の「見たいもの」であり、それによって人格が形成されてるんでしょうね。
そう考えると「見たいものを見る」という人間の性質は、ものすごく重要なことなんですよね。
良い方向にも、悪い方向にも人を変えていきますからね。
その「良い/悪い」もその人の「見たいもの」によって形成されるので、僕が思う「良い」が誰かの思う「悪い」だったりもするのでしょうけどね。
しかも、ネット上では趣味嗜好や思想を共有したひと同士で結びつきやすいので、偏りがちですしね。
いわゆる「サイバーカスケード」ってやつですね。
サイバーカスケードとは?
考えや思想を同じくする人々がインターネット上で強力に結びついた結果、異なる意見を一切排除した、閉鎖的で過激なコミュニティを形成する現象のこと。集団極性化の一種。
出典:サイバーカスケード(Cyber Cascade)とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
(2020年11月23日現在)
ちょっと恐ろしい性質のような気もしますね…。
人は「見たいもの」を見て、それがどんどん増強されていくし似たようなひと同士のコミュニティを形成していくのならば、「見たいもの」は「楽しいもの」でありたいな、と思うのです。
それもそれで、僕が思う「楽しいもの」にしか過ぎず、別の人が思う「不快なもの」なのかもしれないんですけどね。
ま、そのへんは仕方ありませんよね。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。