「石の上にも三年」の意味を勝手に変えてみる
2018.08.03
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。「我慢強くひとつのことをやり続ければ、やがて成果を得られるようになる」みたいな感じで習ってましたよね。僕もそんな感じで覚えてました。ただ、オッサンになると「あれ? ちょっと違うんじゃないの?」と別の解釈が自分のなかに芽生えてくるのです。
「M-1グランプリ」というTV番組があります
テレビ朝日系列で年に1回放送している、漫才コンクールですね。タレントのマネジメントや番組制作を行う、吉本興業が主催している番組です。もう10年以上続いています。
僕はテレビを持っていないので、リアルタイムでは見られないんですが、あとから動画で(イリーガルですが…)出回るので、決勝くらいは毎回見てることになりますかね。好きなんですよ。
この番組が始まったころ、すでに芸能界を引退された、島田紳助氏が大会実行委員長を務めておられました。
ググってみると、この方が企画されて始まった番組のようです。
そのころ、何かの動画で島田氏が「売れない芸人に、辞めるきっかけを与える」「10年続けて売れないのであれば、才能がないということだから別の道を模索したほうがいい」というようなことをおっしゃっていたのを見たことがあります。
これも、ググればたくさん出てきますから、有名なエピソードのようですね。
このときにチラっと「あれ?『石の上にも三年』って、間違えて覚えてる?」と、自分の記憶に自身が持てなくなったんですよね。「たしか『ずっと頑張ればものになるよ』みたいな意味だと思ってたけど」と。「達磨大師由来のヤツだろ、オレ曹洞宗だから知ってるんだぞ」と。
そのとき、ググって、自分の記憶が間違ってなかったことを確かめました。間違ってませんでしたけど。
石の上にも三年
【読み】いしのうえにもさんねん
【意味】石の上にも三年とは、つらくても辛抱して続ければ、いつかは成し遂げられるということ。
出典:石の上にも三年 – 故事ことわざ辞典(2018年8月3日現在)
3年は見極めの期間
僕がやってるデザイナーって職業も似たようなところがあると思います。
タレントさんほどじゃないにしても「努力じゃどうにもならないもの」を求められますよね。「才能」ってやつですね。「どこかで見切りが必要」な職業ではあるのです。
それに加えて、社会の変化や技術の進歩のスピードが早まってますから、見切りのタイミングも早めるべきだと思うのですよね。
なので、前述の島田紳助氏のエピソードに触れたときに「『石の上にも三年』って、見切りの期間だと考えたほうがいいんじゃないの?」「そもそも、元はそういうことだったのかもよ」みたいなことを考えたのですよね。
学生のときに教授から「社会人になって、組織の中でものを言えるようになるまで、10年はかかるんだぞ」「10年は頑張って、そこで成果をあげろ」みたいなことを言われ、信じ。僕は10年経過してからフリーになりました。
「遅かったじゃん」「もうちょっと早かったら、もっといろいろできたじゃん」って思ってますから、10年って長すぎるんですよ。
だから「3年で見切りをつける」でいいと思います。
才能の有無を認識するために必要な期間は3年で充分で、この3年間に必要なレベルに達しないのであれば、すぐにあきらめて、別の分野で次の「3年チャレンジ」を始めたほうがいいように思うのです。
人生は長いのだから「自分はこれに向いてないことが、3年かけて分かった」でプラス1だと思うのです。
才能の有無というのは、人間の上下でもなければ、善悪でもないのです。適性みたいなもんだったり、時代背景にも左右されるようなもんですから、どんどん次の「向いてそうなこと」「好きなこと」「楽しそうなこと」を探せばいいのだろうと思います。
自分で見極めるしかないんですよね
デザイナーでフリーランスならば「食える/食えない」が見極めのポイントになるんでしょうかね。会社に属していれば配置転換などで、やんわりと職を追われたりするんでしょうからね…。
そうすると「才能」とは関係のない要因に左右されることになるから、ちょっと違うのかな?
住む家があって、家族の援助を受けられるのならば、月収5万円のデザイナーが「自分はフリーのデザイナー」って名乗っても全く問題ないですからね。だってその人、食えてるんだもん。他人がケチつけることじゃありません。
ただ、職業全般で考えるとそういうわけにもいかず、ある程度の才能を担保する水準というものがあるようにも思うのです。やはりどこかで「未熟なのではない、才能がないのだ」と認識しなきゃいけない。
ところがですね。「自分は才能がないのだ」と気づける人って、才能あったりするような気もするんですよ。
気づけない方が問題、そっちのほうが才能がないの。
「気づける/気づけない」って書きましたけど、職業能力においても、結局ここだと思うんですよね。
デザイナーなら気づかなきゃいけないところに、気づくことができないって、致命的なんですよ。
これ、どんな職業にも当てはまることだと思います。
チラっと感じた違和感に「ちょっと気持ち悪いから、調整しとくわ」って感じられるかどうかってところかと思います。「え? 特に違和感ないけど」との閾値がプロ水準である必要があるんじゃないでしょうかね。
「標準って、実績と根拠のカタマリのことだと思うのです」でも似たようなことを書いたんですが、「普通」とか「標準」に落とし込めないと、マズいんだろうな、と思っています。
その上で「非凡な人」「天才」とは、この閾値の部分を上手にコントロールできる人のことなんじゃないかなと思います。決して認識できてないわけじゃないと思うのです。
「気づいていて、かつコントロールできる」と「気づかない」には雲泥の差があるように思うのです。
結局、才能のない人は、才能がないがゆえに、才能がないことに気づかないのですよね。
だから才能とは別の要因で、才能の有無を判断するしかないと思うのです。それを踏まえて「食える/食えない」を持ち出してみたのです。
前述の「月収5万円のデザイナー」のような例外を含むことになりますが、それほど目くじらをたてるようなことでもないんじゃないかな。
「少なくとも3年は頑張れ」じゃなくて「どんなに好きなことでも、3年続けて食えなかったら見切りをつけろ」でいいんじゃないでしょうかね。「そんなに好きってわけじゃないけど」ならば、3年も続けるべきじゃないと思いますよ。
「石の上に3年もいて何も起こらないんだから、もうないよ」だと思うのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。