成果物重視? プロセス重視?
2018.09.23
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。「大切なのは結果だ」って言いますね。頑張りを褒められようとするな、と。努力を誇ろうとするな、と。ただ、どこかしらで「アウトプットした成果物なんか顧みなくてもいい、重要なのは努力の仕方なんだよ」ってことになるフェーズがやって来ませんかね?
こんなにも頑張ったんだから…
こないだ投稿した『「過去の経験」とか、どうでもいいかな』の連想記事なんですけどね、僕たち努力はしますよね。それを自覚してるかどうかは別ですけどね。何かを手に入れたいとか、もっと上手にやりやいとか……。
特に自分が職業として取り組んでることならば、日常で「努力」とすら思わずに淡々と継続してることっていっぱいあるはずなんですよね。
子供の頃から「ガンバレ」「努力しろ」「望めば何にだってなれるぞ」って言われてきてますから、努力って大切なことだとは思ってるんですよね。
ただ「自分はできなかったし、何者にもなれなかったけど、こんなにも頑張ったんだから評価して欲しい」が通用するのは小学生、いわゆる「児童」と呼ばれる年齢くらいまでだと思うのです。
(※学校教育法で、幼稚園は「園児」、小学校は「児童」、中学・高校は「生徒」、大学・高等専門学校は「学生」と定義づけられてるんですよ)
「○○さんは、ガンバッテテ・エライ」って感じですね。
その後、中学・高校くらいの生徒時代は、個人差のある過渡期だとしても、大学生や社会人が、自分の努力に対して対価を求めるようになると「ちょっと危険だな〜」と思うのですよ。
そういう人って、オッサンになって組織の中でポジションや役職を得ると「これは、自分の努力によって勝ち取ったもんだ、誰にも渡すもんか。絶対手放さないぞ」と執着し始めると思うのですね。
俗に言う「老害」の一形態だと思うのですが、こういう人って、オッサンになる前から「老害のタマゴ」なのだろうと思うのです。
成果物には賞味期限がある
このパターンの老害って、ものすごく努力家なのかもしれませんよ。おそらく優秀な人なんですよ。
自分のたえまざる努力の結果、「権利」や「保証」を得たと本気で思ってるのかもしれません。
ただ、僕は成果物(役職やポジションも含めてですね)には、賞味期限みたいなもんがあると思うのですね。どっかで自分自身で否定しなければならないフェーズが来ると思うのです。
僕はデザイナーが職業なので、ワリと過去の成果物に否定的に向き合うことには慣れていますが、ずっと肯定を積み上げて、その高さを自信としてきた人には、とても違和感のある作業かもしれませんね。
このへんの言葉選び。うまくできなくてムシャクシャしながら書いてるんですが、前に投稿した『「過去の経験」とか、どうでもいいかな』は「過去の実績」の方がよかったのかな?
どこかで、成果物そのものではなくて、その成果を得るに至ったプロセスを大切にしなければいけないフェーズがあるんじゃないかと思っています。
- 努力を、頑張りを褒めてくれ
- 過去の成功体験にしがみつく
- 昔はこうだった的な懐古主義
みたいなのと紙一重ではあるんですが、そういったものとの線引が自分の中にあるんですよね。
そのへんが上手く言語化できないのです。
どっちも「毒」だし、どっちも「薬」か?
「成果物重視」と「プロセス重視」、たぶん対立概念じゃないんでしょうね? 0対100で決めようったって、ムリなんですよ。
たぶん「どっちも忘れんなよ」ってことなのだろうと思うのです。
往々にして「ちゃんと結果を出す」の方が困難なので、成果物を重視されることが多いと思うのです。だからみんな「努力を評価されようとするな、結果を出せ」って言ってるのであって、別に間違っちゃいないと思います。
ただ、成果を得た後に「オレは結果を出したからエラいんだ、他人を見下してもいいんだ」という態度を取り始めると、そこで成長が終わってしまうのですね。
あのとき自分はどう考え、そう行動したのか。成果に至るプロセスをもう一度見つめ直すフェーズが必要だと考えます。そこには必ず反省点や改善点を含んでいるはずで、そこを修正してアップデートされたプロセスで、別の成果を目指せば、もっと簡単に、もっと優れた成果を得られるかもしれないのです。
それを何度も何度も繰り返したほうが、自分も成長できるし、その中に楽しみもあると思うのですね。
ややもすると人は、成果が得られなさそうなときには、プロセスを過大評価し「こんなにも努力したのです」とアピールしようとします。こういう場合「プロセス重視論」は毒なのですね。
- こうすれば失敗することがわかってプラス1だ
- 組織内の問題点が浮き彫りになってよかった
- 失敗はしたが、チームが結束できた
などなど、成果が得られなかったことを糊塗する表現方法はいっぱいありますからね。
こういうのって、外部の人が失敗した人を慰めるために使う言葉であって、自分たちが反省の弁の中に混ぜ込む言葉じゃないと思いますけどね。
逆に成果を得たときには、そこに至るプロセスを忘れて「自分は優れてる」「自分はセンスがある」と思いたがしますし、関心は「成果に対する評価」に移りますから、プロセスがナレッジ(knowledge:知識/理解/認識/経験/情報みたいなのを複合した、うまく日本語にならない言葉っぽいですね)として残らないんですよね。この場合「成果物重視論」が毒になりがちですね。
「成果物」も「プロセス」も両方とも眼の前において、バランスよく眺めてるのがよさそうですね。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。