体育会出身デザイナーの視座
2018.10.04
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。卒業した大学に「体育会」という会はなかったのですが、運動部だったので、俗に言われる「体育会出身者」なのだろうとは思っています。その後、デザイナーというあまり相関のなさそうな職業についているので、そのあたりからの体育会論をちらほら。
「体育会出身者」に対するイメージ
ちょうど今、女子レスリングから始まり、アメフト、ボクシング、相撲と、スポーツ界のパワハラ問題を中心としたトラブルが次々とニュースとして取り上げられ、同時に体育会的なものに対する対するバッシングも強まっていますね。
おそらく「精神論・根性論」「年齢主義」「体力重視」みたいなものが嫌われているのだろうと思います。
逆にポジティブな面としては「困難に対する耐性」とか「礼儀正しい」「目標の達成をあきらめない」などなどでしょうかね。
なんとなく、ひとつの特性を両面から、ネガティブに語られたり、ポジティブに語られたりしているような印象を受けますね。
僕は自分自身が体育会出身者なので、そういった社会の評価を耳にしつつ「まあ、概ね当たってるわな」と思いつつも「なんか表層的で、芯食ってないな」とも思っているのです。
一例を挙げれば「年齢主義」ですが、4月に入学した1年生がリーグ戦のコートに立ち、4年生がコートから追い出されるようなことが常時起こるのが「体育会」です。ポジションの取り合いは完全に実力で決まります。これを「人格の上下」に伸展させないための「礼儀」だったり「言葉遣い」だったりするのだと思います。
こうした「体育会論」的なものはあらゆるところで見つかると思いますので、僕は僕なりに思っていることをいくつか。
「継続は力」という言葉を信じる
たとえば、小学生や中学生くらいの頃、身近な大人に「継続は力なり」って言われたときのことを思い出してください。
どう受け取りました? 僕は「退屈でつまらない人生訓だな」と感じていました。「もっと、ピンチのときに一発逆転できるような方法を教えてくれよ」みたいなことを思ってたんでしょうかね?
その当時は「継続は力なり」って、オッサンが使う言葉だと思ってたんです。
それが、高校を卒業するくらいには、自分が後輩に「継続は力なり」的なことを言うようになってましたね。
スポーツって、学習効果が成果に現れやすいからかもしれません。
毎日々々、同じことを実直に積み上げていく。たとえば、バレーボールのレシーブ。今は飛び込んでも触ることすらできない。それが毎日飛び込み続けたら、1ヶ月後には触れた。2ヶ月後には上げることができた。3ヶ月後にはコントロールできるようになってた。
そういう経験をする機会がものすごく多いのですよ。
なので、わりと早い時期に「継続は力なり」という言葉を「攻めてる」と感じることができるのだと思います。
決して、守りに入った人が、安定を求めて使う言葉ではないことを身をもって理解できるのです。
むしろ今、何かを始めようとしている人が、その意志を固めるための言葉だと思うのですね。
以前書いた『「1万時間の法則」について考えてみる』に近い考え方なのかもしれません。
ただ「オッサンからの、おことば」に関しては、いろいろ思うところがあります。アドバイスがいちいちウザいですからね。
そういうときって、「そのオッサンみたいになりたいかどうか」で、聞く耳を持つべきかどうかを決めればいいと思います。で、聞く耳持ったとしても、いちいち従う必要なんかありゃしませんよ。
「へえ、そんなもんすかね」くらいの感じでいいと思います。
延々と「タラレバ」をくり返す
「あのとき、ああしてタラ」「このとき、こいういう判断をしていレバ」っていい方を「タラレバ」っていいますね。
よく「タラレバ言うな」って人いますよね? 違うんですよ。自分が思う成果がでなかったとき。後からアタマの中で思いつく限りのタラレバを出したほうがいいと思うんですよね。
成果が出なかったんだから、くよくよすべきなんですよ。
そして、練習やら、イメージトレーニングやら、日常生活で検証するんです。解決策の引き出しを作りつづける習慣を持つことって、ものすごく有効だと思うんですよね。
前項でも書きましたが、スポーツって学習・訓練から成果の確認までを、わりと短い期間で繰り返せることができるんですよ。タラレバからまる仮説の検証に向いてるんです。
そして、成果を確認できても、次から次へと強敵が現れたり、条件によって成果を出せなかったり、解決策を得たつもりだったのに状態が悪化してたり。
自分がどんなに上手くいっても、ライバル設定した相手の進捗速度が自分より上回ってれば、自分の成果を打ち消してくるし、その逆もありですね。
いろいろとコンテンツとしても優れてるんですよね。
「学校の勉強なんて社会に出たときに役に立たない」という人がいますよね。
もちろん、学校で習ったことなんて、どんどん上書きされて補正されますから「あれ違ったの?」なんてことも多々ありますし、習った数式なんて、卒業以来、思い出したことすらありません。
ただ、この問題は教育が持つ、トレーニング(学習・訓練)という要素を無視してることだと思うのですね。
これは、社会に出て役に立つどころか、とても重要な要素です。
体育学部を卒業した人がWebデザイナーでメシ食えたりするんですから。
素直に他人を羨ましがる
他者との力量に差がある場合、その原因を相手に求めて「ずるい!」と表現することってありますよね。
それは「相手が早く準備をしていたから」とか「良い教育を受けていた」「良い素養を持っている」などが気に入らないのだと思います。
「負けたのは自分が悪いんじゃない、相手が『ずるい』からだ」ということにしたいのでしょうね。
僕は大学時代、バレーボール部だったのですが、そこには全日本に選ばれてる選手が何人か所属しているようなチームだったんですね。
はじめて練習に参加したとき、正直「モノが違う」と思いました。
「ずるい」なんて感情、一切湧かないのです。もう「羨ましい」のひとことなのですよ。
そして、そこが第一歩なのですよね。
ここでポジションが欲しかったら、自分でなんとかするしかないのです。すべての責は自分にあるのですよ。
往々にして「ずるい」の意味するところは「羨ましい」だったりしますよね。
まずはこの「羨ましい」という感情を自分の中で認めないと、何も始まらないのですよ。
僕はスポーツを離れて30年以上経った今でも、この「羨ましい」を積極的に口にするようにしています。
先日、話題になっていた、判定になったら必ず某県の選手が勝つボクシング、某クラブ所属の選手にだけ高い得点が付く体操競技。こういう不公正なことに対しては非難してもいいんです。
事実が報道通りなのであれば、正真正銘の「ずるい」だと思いますよ。
デザイナーになっても近い感覚ありますよ
ここまで述べてきた僕なりの体育会論なんですが、「デザイナーになっても同じだな」と思っているのですよ。
- 「継続は力」という言葉を信じる
- 延々と「タラレバ」をくり返す
- 素直に他人を羨ましがる
すべて、デザイナーになってからも実践してますし、下の世代の方にも、こんなこと言ってます。ちょっとウザめかもしれません。
僕は、スポーツを通じてこれらのことを、わかりやすくトレーニングしてきたんだろうと思っています。
ディレクター、広告代理店の人、クライアントの広告担当、販売担当…。僕に指示を出したり、要望を伝えてくれる人は、いろいろいるんですね。ふと「この感じ、競技者とコーチの関係に近いな」って思うことがあって、僕にとってとても心地よい記憶だったりします。
他者とのコラボレーションによって、自分では予想してなかったアウトプットになる経験。たまにこれがあるから頑張れるんですよね。
ボールゲーム特有の、相手選手と味方選手とボールをコントロールしながらの、詰将棋的な思考も、デザイン作業をやってる途中に「この感覚、前にもあったな」って相似性を感じることって多々あるのですよ。
体育会出身者になってから30年以上経過し、デザイナーという職業人としても着陸態勢に入った今、なぜかこういうことを考える機会が増えているのですよ。
職業人として朽ちゆく者の回想なのか、これからの再加速に備えるための思考なのかは、謎。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。