まずは「解決策」も「目的」も要らないことにしましょうか
2018.10.30
最終更新日:2019年01月02日
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。何か問題提起をしようとすると「それに対する解決策を示せ」と。何か行動を起こせば「何のためにやっているのか?」と。実際、そこまで考えてないことの方が多いですよね。とりあえず、頭に浮かんだら、言ってみたり動いてみたりすりゃいいじゃないですか。
問題あると思えば指摘すりゃいいじゃん
たぶん、カチンときてるんでしょうね。僕も勝手にアドバイスめいた話しかけをしてくるヤツが嫌いなので、解らんでもないのですよ。まあ、巡り巡って「おあいこ」なのだろうとは思うのですが、誰かに「もっとこうしたらいいんじゃないすか?」みたいな問題提起するとするじゃないですか。
そうすると必ず「それに対する、具体的な解決策を示せ」って返してくる人がいますよね。
たぶん「そんなこと解ってるよ。その程度のこと、考えて考えぬいた挙げ句、この状態なんだよ、ウッセぇな」って心の中で思ってるんでしょうね。
でもね。「解決策を示せ」とか「で?」って言葉でブロックしちゃったら、風通しが良くならないですよね。
最初はみんな、そんなところまで考えちゃいないんですよ。解決策なんてどうでもいいから気軽に「これ、なんか変じゃない?」って言えたほうがいいんじゃないかと思うのですよ。
組織内のことであっても、対人関係であってもですね。
そこから始まるコミュニケーションもあるでしょうし、「変に見えるけど、実はこれで正しいんです」みたいな新しい知識が得られるかも知れませんしね。
僕、こうやってブログ書いてても思うんですよ。
「この記事読んでも、別に知識が増えるワケじゃないし、何かの問題の解決策が示唆されてるわけでもない」「どうしたものかな」って。
でも「別に解決策とか、そういうのどうでもいいか…」って思いながら、思ってることを日々書いているのです。
役に立つかどうかなんて知りませんよ、と
似たようなことで「それって、何の役に立つの?」「目的は?」ってのもありますね。
僕はよく「フリーランスにとって、休日はラボ」とか言ったり、このブログでも書いたりしてるんですが、あまり仕事に直結しないようなことも「これ面白そうかも」で、変なアプリ入れてみたり、コード書いてみたりして遊んでるんですよ。
一時期は、固定IP取って、自宅にサーバー立てたりもしてました。別に何の目的があるわけじゃなくて「自分ちにサーバー立てることができて楽しい」ってだけだったんですけどね。
でも、その後、サーバーに入れて動かすオープンソースのシステムとか、いろいろ試して遊ぶことができたので、あとから「目的」ができた感じですね。
いろいろ入れてたら、変なことになって、唯一実用で使ってたファイルサーバー(Samba)が動かなくなって、復旧もできなくて結局捨てちゃいましたけどね。
もともと、最初からオモチャとして買った、安いPCキット使ってたので、発熱もハンパじゃなかったんですよ。
でも今、職業になってるWeb関係の技術も元々は、遊びではじめたんですよね。僕、印刷物をデザインする仕事をしてましたから「なんだ、これ。ちょっと遊んでみよう」みたいな感じでしたね。
この時代のことは「Webはチャチくてダサかった」で、ちょっと触れています。
最初は「なんか面白そう」で、いじくり回して遊んでみればいいんじゃないですかね。目的なんて後からできてくるもんなんだろうと思うのです。
原体験は「木小屋」なんですよ
昔は、木を燃やして風呂を炊いていました。僕が生まれた家も、薪を焼べるタイプの風呂釜を使ってましたね。
裏庭に木小屋がありました。父親が大工だったので、解体した家の廃材を持って帰りますから、薪に困ることはありませんでした。
それと、父親の使い古しの大工道具を勝手に使っていいことになっていました。
記憶があまり鮮明ではないのですが、今から考えても、かなり危険な刃物を使って遊んでいたように覚えています。
電動工具は、家には置いていませんでしたから、僕から遠ざけてたのでしょうね。
五寸釘をコンロにかけて、真っ赤に焼いて遊んでたときには、ものすごい剣幕で怒られた記憶がありますし、塗料や接着剤は手の届かないところに置いてありましたね。
たぶん、電動工具と火と薬品はNGだったのかな?
これがまだ、就学前のことです。木小屋と古い大工道具が僕のオモチャでした。
もちろん、市販のオモチャも買い与えられていたのですが、もっぱら木小屋で遊んでいたようです。
木を切って、削ってカタチを変えるだけで、とても楽しかった思い出があります。
「この道具なんなんだろ?」と思ったら、テキトーに自分なりに遊んでみた上で、父親に「本当の使い方」を聞いてみる。
「まず、行動してみる子供だった」みたいなことじゃなくて、道具箱から知らない道具を探し当てたときには父親は外出しているので、自然と「使ってみる」が先になりますよね。
自分が考えた使い方なんて、だいたい外れてるんですけどね。
父親に、刃物の研ぎ方を教えてもらったのが、小学校低学年だったんじゃなかったかな?
しばらくは「研いで」「そのへんのものをテキトーに切る」を延々と繰り返してましたね。なんか不思議な気持ちがしてたんですよ。
自分が手間をかけることで、道具の機能が向上するのですから、新しいチカラを手に入れたような気がしてましたね。
人の言動や行動を止めない
こうして記事を書きながら、当時のことをいろいろと思い出してきました。
刃物を家から外に持ち出すと、こっぴどく叱られましたね。
ガキだから、学校に持っていって見せびらかそうとしたんでしょうね。
それと、刃物が飛んで刺さるヤツか…。これは、有無を言わさずに破壊されました。
庭の柿の木を切ったときも、叱られました。このときは「木小屋の木は切っていいのに、柿の木を切ったらいけない…。なんで? なんで?」と長いこと煩くしてましたね…。
きっと「オモチャを見つけたら、とにかく触ってみて、遊び方を発明しちゃうガキ」が、僕というマトリョーシカの一番最後に出てくる、ちっちゃいヤツなんですよ。
「解決策」とか「目的」とか、端っから考えてやしないんです。
そういうことって、後から見えてくるもんだと思うんですよね。結局、なんの役に立たなくても、楽しく遊んだんだから、それでいいんじゃないですかね?
「解決策を言え」や「目的は何?」と問うことで、人の言動や行動を止めないことがまずは大切なんじゃないでしょうかね。
これは、自分自身に対しても言えることだと思うのです。
おかしいと思えば口にすればいいし、楽しそうと感じれば遊んでみればいいのです。考えるのはその後で十分なんですよね。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。