「熱狂」と「継続」の2019年
2019.01.01
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。元旦ですよ。年が明けましたので「今年の自分はこうありたい」的なことを書いてみたいと思います。50代半ばにもなりますと、去年と今年なんて大した違いなんてないものなのですが、だからこそ「変えよっか」と言葉にする必要があるように思うのです。
最近「熱狂」って言葉使ってる人、多くないですか?
ちゃんと調べたワケじゃないから、僕の感想に過ぎないのですが、最近「熱狂」ってワードに引っかかってるんですよね。
「なんか、見聞きすること、増えてない?」と。
Google広告の「キーワードプランナー」で調べたら、月間平均検索ボリュームが1000〜1万ってことらしいです(2019年1月1日現在)。
「まあ、少なくはないのかな?」ってくらいでしょうかね。よくわかりませんね。
Google トレンドで調べてみると、2018年11月あたりで、ピョコっと増えてます。
テレビ番組に、そういうワードで何かを語る人が登場したなどの理由で、一瞬バズった可能性がありますね。
僕も、そういうときに触れて、印象に残ったのかな?
熱狂 – Google トレンド(2019年1月1日現在)
でも、それ以外は、それほど変わってる感じはしないのですよ。
11月あたりの一瞬のバズを除いて、「熱狂」というワードの流通量はそんなに変わってないんだろうけど、自分がオッサンなもんだから、こういう前向き感のある言葉に敏感になっちゃってて「お、いいじゃないか」って思ってるだけなのかもしれませんね。
それと、もういっこ。
僕が山口県萩市の出身で、かつ今、故郷である萩市に移住を決めてるということが影響しているのかもしれません。
有名なお言葉「諸君、狂いたまえ」を連想しちゃった?
萩市には、吉田松陰という幕末の偉人がいるのですよ。
松陰神社という神社に祀られて、神様にまでなっている人です。東京にも世田谷線に「松陰神社前駅」ってありますよね。その吉田松陰です。
その方が語ったとされる有名な言葉の中に「諸君、狂いたまえ」ってのがあるのですよ。
今はどうかわかりませんが、僕が小学生だった半世紀近く前には「松陰読本」という教材があって、イズムを学ぶシステムになっていました。
なので、もともと「狂」という文字に反応しやすい体質に育っちゃってるのかもしれませんね。
それに「熱」がくっついてるのですから、グッときますよね。
グッときたついでに、パクって自分の2019年のテーマにしてしまおうと思います。
「諸君、狂いたまえ」でググると、いろんな学者さんたちの文章が出てきますから、「解釈の正しさ」に関しては、そちらにお任せするとして、ここでは、僕が勝手に思い込んでいた「オレサマ解釈」を記しておきます。
どっかで、そういう解釈を読んで、それに納得しちゃってるだけなのかもしれませんし、見聞きしたことと自分の思考が混ざりあってるのかもしれませんけどね。
僕は「狂う」って「自分でちゃんと考えたほうがいいんじゃないの?」って意味だと思ってるんですよ。
世の中には、チマタで言われている「正しいこと」ってのがあって、それがずっと続いていて、その方法を踏襲することが「常」なのだろうと思うのです。そういう知識のことを「常識」って言いますもんね。
逆に「オレが考えたやり方の方が上手くいくんじゃないか?」とか「オレはオレなりのやり方を考えてみたいんだよ」みたいなのは「異常=狂」だと、そんな感じなんじゃないかな? と思っているのです。
「ボクが考えた最強の○○」って、たいていはしょうもないことだと決まっているのですが、「今あるものを盲従せずに、ちゃんと考えてみようよ」「マジでしょうもなかったとしても『やっぱダメだったね』がわかって、プラス1じゃん」みたいな、とてもしっくり来る、まっとうな考え方だと思っているのです。
吉田松陰という人は、異常行動を繰り返した上、死罪によって人生を閉じた方なのですが、語り継がれてる異常性など断片に過ぎず「自分で考えろ、自分の考えを行動に変えろ」みたいな感じの人なのだろうと理解しています。
「やりたいと思ったら、うだうだ言ってないで、やってみりゃいいじゃん」な空気感は僕ごときにも、なんとなく伝わってくるのですよ。
そういうときって「熱」要るんですよね。
自分自身が変わろうとしてる最中なんですよ
平成最後の年明けなのですよ。昨日は、平成最後の大晦日でした。
僕が今「萩市に移住しよう」と思ってたり「また何かの初心者になりたい」って思ってるのって、元号が変わることに影響を受けてるのかもしれません。
そういうことにしておいたほうが、自分の考えに折り合いを付けやすいんですよ。
「元号が変わる」って決まってないときには「オリンピックだな…。東京五輪が節目だわ」とか思ってましたもん。
「社会が変わるんだから、そりゃオレも変わるでしょ」って思い込んで、勝手に切っ掛けにしちゃってるような感じってあるんですよね。
「もう、平成じゃないしね」とか「もう、セミリタイアしちゃったしね」「いつも東京にいるわけじゃないしね」などなど「今までと同じってワケにはいきませんよ」みたいなことを後ろから支えてくれる言葉を準備しておけば、自分に対しても、他人に対しても何かと便利なのですよね。
自分が考えてることや、やろうとしてることを、他人から聞かれることってあるじゃないですか。
ちゃんと向き合うことができて、同じ熱量を持って接してくれる人には、それなりにちゃんとした説明をするのですが、中にはテキトーに流したい場面もあるんですよね。
そういうときに「もう平成じゃないしね、ちょっと乗っかって変わってみようと思うんすよね」くらいの物言いで流すことができれば、ラクだったりしますよね。
とりあえず、コツコツと量産体制を続けるか
このブログもそうですし、何年も前に「デザイナーになりたい」だったり「Webでメシ食いたい」って思ったときなど、何か新しいことを始めるときって、いつもそうなのですが、
- 質よりも量
- 楽しいと思ったら続けてみる
しか、やり方を知らないのですよ。
誰かに習いに行ったりとかしないもんですから、とにかく自分でテキトーに始めちゃうんですよ。
で、出口のイメージなんて、一切持たずに始めちゃうもんですから、やり続けるしかないんですよね。
たとえ、20点、30点程度の成果物だろうが、どんどんアウトプットしていく。あとから見返して「なんだ、これ?」と思ったら、そこから考え直したり、修正したりする。
とにかく手を止めずに、なんかしらこさえ続ける。
そんな感じのことを続けていこうかと思っているのですよ。
自己啓発系の本とかに書いてありそうな「人生、死ぬまで勉強」みたいなことに対して「ホント、そのとおりだね」と思っているのです。
「継続」するためには「熱狂」って不可欠だと思うのですよね。熱を失っちゃうと、継続することが苦痛になりますから、続くわけないんですよね。
逆に「熱狂」してるうちは、継続することが楽しいことのままキープできるので、ほっといても何かをやり続けちゃうんですよね。
結果、たくさんものをこさえちゃう。
もちろん、中には謎作品も多く含まれるでしょうが、とにかく何かをやり続けることにしたいと思っています。
まあ「今年の抱負」っていうよりも、ずっとそうなんですけどね…。
「質」と「量」は対立概念じゃないよね
今年も「ヨシ、これやる」ってことを増やしたいのですよ。
現時点では、何を「やる」って決めてるわけじゃないけど、姿勢の問題ですよね。
決断しつづけたいのです。ダメならダメで仕方ないんです。
2018年は「もう新規案件、受けませんよ」って決めたらスッキリしたし、二拠点生活始めたら「ちょっとは環境変わったな」って感じがします。
ブログ書き始めたら、心折れることも多いけど「これは楽しいから、続くな」って手応えもあります。
決断して、行動すると心地いいので、これを続けようというだけの話なのですよ。
2019年には、また別の「これはじめた」を見つけようと思います。
新しいことをするときって「加える」場合と「減らす」場合があると思うのですよ。
でも往々にして「加える」だけをイメージしがちですよね。
本来「加える」は、熱量をもって感情的に取り組むことが必要で、「減らす」ときには、冷静に理性的に行うべきだと思うのですが、ときどき逆になって「今の状況、マズいな」って思うこともあるのです。
たとえば、今みたいに「何か新しいことを始めることを決断する」って決めちゃったがゆえに、それが目的化しちゃって、今流行ってることをリサーチはじめたり、同業者の同行をみて似たようなものを模索したりして「理性的」に何かを加えようとしちゃったりする。
逆に「こんなのやってられない」「はやくこのフィールドから立ち去りたい」と「感情的」に何かを減らそうとしたりする。
「逃げる」ことを「新しく行動する」にすり替えちゃったりするんですよね。
これも、結局「質より量」なのだろうと思うのですよ。
何が良くて、何が悪いのか、今の自分には判断できないけれど、たくさん「決断」しつづけて、軌道修正しつづけるしかないんじゃないかな? と。
「質」と「量」は対立概念じゃなくて、「量」を先行しておけば、そのうち「質」を担保してくれるような気がするのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。