起業はひとりですればよかった
2019.03.13
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。僕の今の状況が、四半世紀前にフリーになりつつ法人を設立したときにそっくりで、そのときの出来事がオーバーラップしてくるのですよ。そのときの反省点の振り返りとか、2回めだから気づいた「最適解なんて一瞬。だんだんとすり減るよ」みたいな話とか。
いま「デザイナーをやめよう」「人間関係をリセットしよう」「住むところを変えよう」と思いつき、できるところから行動し始めているフェーズなので、どうしても20数年前にサラリーマンとして生きることをやめ、フリーランスのデザイナーという生き方を得たんだときのことがオーバーラップしてくるのですよ。
何かを感じたり、思いついたりするたびに「あのときもそうだったな」と思い出すのです。
もう四半世紀が経過しているので、僕も年齢を重ねましたし、社会環境も激変しています。まだ、Webがチャチくてダサかったころのお話なのですが、せっかくなので、当時のことを振り返ってみて、感じたことを記録しておきたいと思います。
本当は当時から、ずっと文章で残しておく習慣をつけておけばよかったのですが、テキストコンテンツの重要性を感じてなかったんですよね…。
これも「当時を振り返ってみて、感じたこと」のひとつです。
フリーのデザイナーですが、法人化しているのです
僕はフリーランスのWebデザイナーです。フリーになった当初は、まだインターネットの黎明期にちょっと手が生えた程度、Webなんて存在は知ってたものの、まだまだ「オレはグラフィックデザイナー」だと認識していました。
ときを同じくして、法人も設立していたのですよ。
メンバーは僕のほかに2人、計3人が100万円ずつ出し合って設立した有限会社でした。当時は、有限会社の設立に300万円。株式会社だと1,000万円の資本金が必要だったのです。
そのとき設立した会社は、今でも僕が資本金300万円の有限会社のまま所有・経営しています。
もともと「3人がそれぞれの役割を決めて共同で経営していこう」という感じでもなかったのですよ。
元々は、3人とも大学のバレー部の先輩後輩の間柄。僕が「会社辞めてフリーになるよ」と言ったのをきっかけに「一緒になにかできればいいね」程度のスタートだったのです。
僕以外の2人のうち、ひとりは頚椎損傷の障害者。大学卒業後、スポーツ施設で勤務していなのですが、事故で障害を負ってしまった中途障害者です。
打ち合わせのための外出とか、パソコン入力時のタイピングなど、ほんのちょっとのハンディキャップを埋めることができれば、在宅で仕事できるんじゃない? そのためには会社が合ったほうがいいよね。他のメンバーが業務内容を把握していれば、電話の受け答えくらいはできるだろうし、バリアフリーに関する情報を共有することで、なにかのビジネスができるかもね、と。
もうひとりは、障害者スポーツ施設の職員。行政の中だけでは、やりたくてもできないことがあるから、民間の企業を作りたい、これから障害者スポーツやバリアフリーみたいな考え方がどんどん浸透してくるはずだから、それを具現化するための組織を持ちたい。また、ボランティアでやってる障害者のための旅行企画や、老人の健康づくりなんかも、事業化できるプラットフォームが欲しい、と。
今振り返っても、間違ったことは一切考えていないのですよ。
客観的に考えると「この四半世紀で化けた可能性、十分あったんじゃないの?」とも思うのですが、現実ダメだったので、それはそれで仕方ないことなのですよ…。
楽しかったから、見込みが甘くなった
僕の他の2名は、障害者年金と給与で生活の糧があるのですよ。日銭を稼ぐ必要があるのは僕ひとりでした。
まだ、収益がない時点から月額報酬を設定できるわけもなく、最初は貯金を取り崩して生活してましたね。
当然、生活は困窮を極めました。
ただ、スタートアップの常なのでしょうが「あれしたい、こうなりたい」を語るのが、とても楽しいのですよ。
そして「できるはずだ、こうなるはずだ」までは話は進むのです。
それがだんだんですね、そこまで「しか」話が進まないことに気がついてくるのですよ。
僕と他2名の緊急性の違いも無関係ではなかったんでしょうね。僕は来月の生活費が欲しい。ふたりは「社会をこう変えたい」みたいなことをずっと言っている。
このあたりが最初の亀裂でしたね。そのうちだんだんと、他2人が会社を「設立した」と会う人や知人に吹聴してるのも気に入らなくなるのですよ。
「誰々さん紹介してもらったから、会って話を聞こう」みたいなのも、次第に付き合うのが億劫になってくるのです。
僕も舞台のプロデュースとかを始めていて、とにかく勉強することが多かったし、稽古にも毎回参加したりしてましたからね。
なんとなく、二人にとっては「会社を設立したこと」がゴールになってるんじゃないかな? 言葉や行動の端々に感じるようになっていっていたのですよ。
今、顧みると「将来の展望を語り合う楽しさにかまけて、見込みの甘さに気づかなかったな」に尽きると思います。
オレたちは弱者連合だった
僕自身が、たったひとりでハダカになるのを恐れていたからだと思うのですよ。
「フリーになりたい。でも仲間が欲しい、運命共同体が欲しい」と思っていたのですよ。他のふたりも、似たようなもので、それぞれにフラストレーションを抱えていて、ガス抜きできるところを求めていたのだろうと思うのです。
3人ともが「楽しい話」を拠り所にした結果だろうと思っています。
僕たちの会社名でプロデュースした舞台も、いろんなマスメディアに取り上げてもらって、表面上は盛り上がったのですが、稽古場やキャストの報酬、本番の会場費などなどが想像以上に嵩み、借金を追うことになりました。
僕は「ここが判断のしどころだな」と思い、ふたりを無視する形で、デザイナー業に集中することに決めました。
界隈ではバズった舞台だったので、その思い出話と、今後の楽しい展望についての会話をする会は、定期的に催されます。
僕自身は、収入ゼロの時点で700万円の借金がありましたから「終わった…」と思ってたんですけどね。
「楽しい話」にはあふれていたのですよ。
「運がよかった! 助かった! 救われた…」としかい言いようがないのですが、そのころ集中して学習を始めていた「Webデザイン」の仕事が増え始めるのですよ。
体感では、1年程度で借金を返済し、かつ、コンビニ程度では値札を見ることがなくなったと記憶しています。
そのころ税理士の勧めもあって、ふたりの出資金を僕が買い取る形で、自分ひとりの会社にしました。僕自身も「この機会に失敗を認めよう」「この誰も損していない状況で3人体制を解消しよう」と考えていたのです。
それを機に、僕たちの会社は、僕のデザイン事務所になったのです。
決して「起業はひとりですべき」という話ではありません。「僕の場合は、あまりにも甘すぎた」という、自らを反省する話です。
最適解にも寿命がありますよ
その後「ひとりのデザイン事務所が最適解だな」という結論にたどり着くのです。
この考え方は、それほど間違っていなかったと思います。
僕自身、相当充実していました。なによりも、仕事が切れないことの幸せを感じることができたし、その後20年近く(現在まで)お世話になるクライントと出会ってから3年目には「お金貯まった。マンション買う」って言ってましたから。
このときは、法人化してて、給与所得者になってたことが、住宅ローンに一発で通る結果をもたらしてくれたと思っています。
そのときにたどり着いた「最適解」にずっと頼って職業人生を歩んだ結果、今こうして再び人生の岐路を迎えているのです。
おそらく「最適解」ってメンテナンスが必要なのですよ。僕はそれを怠っていたのです。
過去の記事をさかのぼってみると「創作意欲のメンテナンス」というタイトルで、それっぽいことも書いてますね。
たぶん「最適解あった、これでしばらく漕がなくても進む」と思った瞬間に価値が減り始めるってことなんでしょうね。
「ラクしたいから、最適解探し出して、そこにハマりたい」って欲求もあるんですけどね。
とりあえず、20年前に見つけた僕にとっての最適解はすり減ってガバガバになってるので、新しいのを探してるところなのです。
この作業、楽しいから「ヨシ」としています。でも「楽しくても見込みが甘いとダメだよ。二回目でしょ」ってことです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。