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同級生の訃報に接して、自分の残りの人生をイメージする

2019.03.18

こんにちは、萩ドットライフ()です。

「何かを死に物狂いでやってみるのも悪くないかな」と思っているのです。可能ならば、後の人生に変化をもたらすようなことのほうが楽しそうですよね。50代になると、本物の「死」をイメージしはじめるのです、数日前にも同級生の訃報に接しました。

同級生の訃報

日曜日の朝、目が覚めたら、同級生の訃報が飛び込んできました。
高校時代の同級生のLINEグループができてるのですよ。要らぬ旅行やゴルフ、飲み会の写真を連投してくるヤツもいて、少々うっとおしいこともありますが、こんなふうに役に立つこともありますね。

もう30年以上会っていない同級生なので、SNSがなければ、このことは知らずじまいだったでしょう。おそらく僕は今でも行方不明者だったろうと思います。

亡くなった方は、たしか高校2年のときに同じクラスだったのかな? 高校時代はせいぜい、二言三言くらいしか会話しなかったように思います。
最後に会ったのは、大学時代。
僕はバレーボール部に所属していたので、休みが短かかったのですよ。夏5日間、正月1週間みたいなもんでしたかね? しかも、リーグ戦などの試合日程を避けて休みますので、ちょっと変なタイミングなんですよね。
夏休み3日って年もあったかな? とにかく同窓会的なものには一切顔を出すことができない4年間を過ごしてましたね。
そのときも「たぶん誰とも会わないだろうな」と思いながら帰省していて、萩市ではちょっと大きめなスーパーの中をブラブラしていたのですが、そこで声をかけてきたのが彼女でした。

近くの喫茶店にふたりで入って、小一時間近況を話し合ったのが、最初で最後の「ちゃんとした会話」でした。
たしか、島根県の大学で音楽やってるって言ってたんじゃなかったかな?

訃報に反応する同級生たちのやりとりを眺めていると、どうやら教員になられて、今は小学校の校長を務められていたもよう。大学院まで進まれたってことですかね?

同級生どうしの距離感…

僕は今50代半ばですから、同級生の訃報に接するのは、はじめてではないのですよ。
でも、人生折り返してますからね。「だんだんと増えてくるのかなあ」とは思っています。

当然、自分が人生を閉じる日がくるだろうこともイメージしてしまうのですよ。
「悔いのないように」とか「やり残しのないように」みたいな陳腐で、これまでの人類が何億回もコスり回したような文言しか思い浮かびませんが、まさにこの通りなんですよね。

以前「50代になったら同窓会が増えた」という記事を投稿したことがありました。
僕は、この歳になって同級生同士でつるみたがってるのを否定的な目で見ているのですよ。
でも、僕が彼らの輪に入るのが嫌なだけで、彼らがそういう付き合いを構築するのに文句があるわけではありません。

たとえば高校であれば、卒業してもう40年近い月日が流れていますからね。
もう「風習の違う部族に属してる」「違う宗教を信じてる」くらいに話が噛み合わないのですよ。

相手の話を理解して、こちらの考え方を納得させるような場面でもないので、時間を共有するのが無駄だなと思っているのです。

年に1・2回の近況報告のために出席するような同窓会なら構わないんですけどね。

ただ、今回は残念なことに訃報ではありましたが、こうして同級生の動向を共有してもらって、自分自身と照りし合わせて考えるキッカケを得ることは、決して悪いことではありませんよね。
なかなか距離感が難しいですが、ほどよい感じで付き合いを続けていこうと思っています。

他人の死に接することで、自分の死をイメージする

年々、自分の時間を無駄にすることに嫌悪感を感じるようになっているのですよ。
たぶん「死をイメージしていること」「人生の折返しを過ぎてること」「加齢による更年期障害」いろいろなことの合わせ技なのだろうと思います。

今回のように同級生・同世代の人の訃報に接すると、瞬間的にその思いは強まりますね。
本来は、亡くなった方を偲ぶべきなのです。もちろん、そういう感情は湧くのですが、それを覆い尽くすように「オレもこうしてある日突然…」「自分に残された時間は如何ほどの…」「このままの自分をいつまで…」みたいな自分のことばかりを考えはじめてしまうのですよ。

亡くなったのが同級生ではなく肉親だったら…。もちろん、悲しみの度合いは同級生の死よりも大きいでしょうし、果たすべき役割も多々ありますので、その人の死が頭の中を占める割合は比較にならないほど高いのでしょうが、それでも結局は自分自身の残りの人生のことを考えるような気がするのです。

若い頃の人の死って「人って老いたら死ぬもんなんだ」「事故は怖い」「病気は怖い」みたいな、どこかしら他人事だったんですよね。

「知ってる人が死んだ。オレにもこの日が」と考えるようになったのっていつ頃からなんでしょうね…。
まったく自覚がないのですよ。
でも、いつの頃からか「他人の死に接することで、自分の死をイメージする」みたいな感情は生まれてきていましたね。
「死をイメージする」っていうか「残りの人生が有限である」っていう、ごく当たり前のことを身にしみて、再認識する感じですかね。

「死に物狂い」になるタイミング

「オレ、死んじゃうんだよ」なのですよ。明日かもしれないし、50年後かもしれないけど。
ならば「これやっといたら、その後の人生がちょっと変わるかもしれないな」みたいなものを見つけたら、すぐにでもはじめてみたくなっちゃいますよね。
もう何パターンか、違う自分を作ってみたいですもんね。

「死に物狂い」って言葉がありますよね。

しに‐ものぐるい〔‐ものぐるひ〕【死に物狂い】の意味
死ぬことも恐れないでがんばること。「死に物狂いになって戦う」
出典:死に物狂い(しにものぐるい)の意味 – goo国語辞書(2019年3月18日現在)

50代にもなると、本物の「死」をイメージし始めちゃうのですよ。
半年とか数ヶ月くらい「死に物狂い」をやってみて、ちょっとでもいいから、自分の人生を楽しい方に、意義ある方に軌道修正してみたいな、などとと思っているのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。