考え続けること(思考のアイドリング)
2019.05.15
最終更新日:2019年05月16日
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。デザイナーであることを辞めようとしていますが、その後も、今の僕を形作っている「デザイン思考」が止まることはなかろうと思っています。「思考のアイドリング」のようなものがずっと動いていて、その様式で考え続けることになると思うのです。
練習を1日休んだら取り戻すのに3日かかる
「練習を1日休んだら取り戻すのに3日かかる」
若い頃にスポーツをやっていたにとって、一度は聞いたことがある言葉なのではないでしょうか。
僕は中学から大学までバレーボールをやっていましたので、何度も聞かされてきました。
大学は体育学部に進み、教員免許も取得していますので「言う側(=指導者)」になっていたかも知れません。
中学生・高校生くらいまでは「練習をサボらせないための方便だろう」と思っていました。
でも、大学生くらいになると、だんだんとその意味がわかるようになってきたのですよ。
僕が所属していた大学のチームでは「休養も練習の一部だ」ということで、「休み」と言わずに「レスト」という言葉を使っていましたが、年末年始やリーグ戦後の「1週間レスト」の後に練習を再開すると、明らかにボールが手に付かないのです。
おそらく、上手くなればなるほど、休むことの影響が大きくなるのでしょうね。
僕はこれを、身体的な現象かと思ってました。
指先の神経や、関節、筋肉などの感覚や動きを取り戻すまでに時間を要するものなのだろう、と。
ところが、スポーツから離れデザイナーになって、フリーランスになった頃、また同じ感覚が蘇ってきたのですよ。
思考のアイドリング
一度、デザインから離れると、もう一度デザインの「業務感」を取り戻すのに、時間を要するのです。
「練習を1日休んだら取り戻すのに3日かかる」は、思考においても当てはまるような気がし始めたのですよ。
数時間、作業に集中することはよくありますが、それではなくて「ずっと考え続けてること」がありますよね。
たとえばデザイナーの僕であれば、食事をしているときも、お風呂に入ってるときも、うっすらとデザインのことを考えています。
とくに意識していなくても、何かの情報に接したときに、すぐにデザインのことを結びつけて考え初めてしまう。
ずっとアイドリングを続けてるような感じがするのです。
もしかして、スポーツの世界で言う「練習を1日休んだら…」にも、これが含まれていたのかもしれません。
よく「人間の集中力には限界がある」と言われますし、作業中に集中力を向上させるために、いろんなことを試したりはしますが「思考のアイドリングを絶やさないように」とはあまり考えませんよね。
僕は今、30年以上続けたデザイナーを辞めようとしています。
すでに、新規案件の受注を断ってセミリタイア状態に入っているのです。
それでも、デザイナーとしての「思考のアイドリング」は、しばらく継続すると思うのですよ。
デザイナーとは、表面的な「アート」「スタイリング」のことではなくて、マインドセット(思考様式)のことなので、すぐにそれが止まることはないのです。
(参考:デザイナーは引退しても、デザインは続けるよ)
考え続けるための燃料
今、老後に向けて、職業の選択を含めた「働き方」を変えようとしているのですよ。
(参考:老後は仕事を「生産的な趣味」に移行しよう)
とくに「これをやる」とは決めていません。
現時点で頭の中にある「やりたいこと」「やりかけたまま放置してきたこと」に片っ端から手を付けていきたいと思っています。
「そのうち何かがモノになればいいや」くらいの感覚でいるのです。
そうした中で、根底では「デザイナーとしての思考のアイドリング」を途切らせないようにしたいのですよ。
ブログを書こうが、DIYをしようが、家庭菜園を作ろうが、ずっと頭のどこかでアイドリングし続けていて、アクセルを踏み込めば「デザイン思考」が、グンと加速するような状態にしておきたいのです。
逆に、あれやこれやといろんなことに手を付けてみることが、思考をアイドリングするための燃料になってくれるような気もしているのです。
なんだかんだ言いながら、人は状況に飽きるのですよ。
僕が今「デザイナーを辞めよう」と思っているのも、飽きてるからなのかも知れません。
デザイナーじゃない状態で、デザインのことを考え続けたいフェーズなのですよ、きっと。
心の熾火(おきび)を回収する
以前「新しい感情」という記事の中で「心の熾火(おきび)」という表現で表したように、ぼんやりとした解像度の低い「やりたかったこと」「途中でほったらかしにしてきたこと」がたくさんあって、それを回収するフェーズだと感じているのですよ。
これまで、ずっと思考をアイドリングさせてきたからこそ、もう一度向き合うことによって、輪郭をくっきりとさせ、上手に言語化できたり、具体的な行動に移すことができるような気がしているのです。
おそらく、これからも生きている限り「心の熾火」はでき続けると思うのです。
そしてまだまだ回収に時間を要するものもあろうかと思います。
僕は「心の熾火」を回収するために、どのような思考をアイドリングさせ続けているのか。何を考え続けているのか。そのことについて、自覚的でありたいと考えているのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。