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自分の代わり、替わりの仕事

2019.09.10

こんにちは、萩ドットライフ()です。

ずっと「自分の代わりなんて、いくらでもいる」という考え方に怯え続けてきたのですよ。仕事を失いなくありませんからね。でも「替わりの仕事もいくらでもある」はずなのです。「もうちょっと、いろんな体験できたかな」と人生を振り返っているのです。

自分の代わりなんていくらでもいる

自分の代わりなんていくらでもいます。
試合前にメンバーに加えられないとか、付き合ってた彼女にふられるとか、友人が違うヤツに悩みを相談してるとか…。

自分で思ってるほど「オレにしかできない」ことなどはないのですよ。

特にそれが仕事のことになると、僕は20年以上、フリーランスとして働いてきたので、アタマのどこかでずっと「オレの代わりなんていくらでもいる」と自分自身を脅迫し続けてきました。
「慣れるな」「サボるな」「怠るな」と…。自分のポジションを奪われると、収入が途絶えますからね。

それでも、自分から「オレ、セミリタイアしますから、新規案件の受注を打ち止めにしてください」と宣言すると「抜けられると困る」「もう少し、やって欲しい」みたいなことは言われるのですよ。
「そんな話なんて聞いてない」みたいな体(てい)で、「こういう案件が来てて、『是非』って指名なんですけど」と新規案件の話しを持ちかけられる時期もしばらくありました。

嫌な気はしないので、少し心は揺らぎますよね。

何度も断って、飲み会の席で自分の将来の展望を何度も語って、ようやくセミリタイアにこぎつけたのです。

それまでずっと「自分の代わりなんて…」という言葉に怯え続けてきた職業人生だったのですが、今は「ほら見てみろ、オレの代わりなんていくらでもいるじゃん」と、自分の思ってたことが証明できて良かったような気にすらなっています。

デザインに替わるオレの仕事も…。あるよな

自分の仕事が誰かに変わられることが怖くて、思考停止していた20年だったかな、とも思っています。
それは世間的に言えば「安定してる」ってことだし「切れずにデザインの仕事貰い続けたい、お金稼ぎたい」って、自分で望んで、そして獲得したことだったんですけどね。

正しい決断をし続けてきたはずなんですけど、ちょっとずつ置き去りにしたものたちがあって、それらが少しずつ積もっちゃった感じでしょうかね。
以前投稿した「新しい感情」の中で書いた「心の熾火(おきび)」と似たようなものだと思います。

人は毎日、数え切れないほどの決断をするのですよ。
目が覚めて、ベッドから出るタイミングだとか、先にトイレにいくのかPCの電源を入れるのか、ベランダから天気をチェックするのか。
などなど、決断しなければならないことは無限にあるのですよ。

これらを何の疑問も持たずに毎日を過ごしても楽しくないのです。ちょっとした決断と向かい合うときでも「おや?」と疑問を持って引っかかることが大切なのですよね。

そこから次の何かを考えはじめるのです。

たぶん加齢とともに「引っかかる」ところが変わってくるのかもしれませんね。
10年前、20年前に引っかからなかったことを、今になって「なんでここに引っかかってないんだよ」と思うようになっています。

40代半ばを過ぎた当たりから「自分の代わりがいくらでもいるのなら、デザインに替わるオレが取り組むべき仕事も、いくらでもあるんじゃないな?」とうっすらと思い始めていたような気がしますね。

実際、すぐになんらかの行動を起こしたわけではないし「思い始めた」と言っても、ぼんやりとですからね。
「あのとき、もう少し深く考えていれば」と後悔はしていますが、デザインの仕事が好調だったし、自分が望むお金ももらえていたので、簡単には動けませんよね。

前述の通り「思考停止」してましたね。
別のところでグルングルン頭を使ってたので、仕方ないんですけどね。

エピソード欲しい。ネタ欲しい

今こうして毎日ブログを書いているのですが、どうしても自分の考えを自分の体験と絡ませて語りたいのですよ。
そうした方が、面白くなるし信憑性も増す、実際の行動でつないで、別の記事とも繋げやすいと思っているのです。

でも、どうしても自分の体験の数なんて知れてるんですよね。

「大学に4年通って普通に卒業、そして就職。このときに入った会社を5年後に定年で退職します」っていう人よりは若干多めのワガママを許容してきた感はありますが「もうちょっと多くても良かったかな」と思うのです。

僕は今、50代半ば。サラリーマン年齢に換算すると、もうちょっとで定年退職なのです。

「この年になっても」なのか「こんな年になったからこそ」なのかわかりませんが、飲み会で話したり、ブログネタにできるようなエピソードが多いことって、大切だと思うようになってきています。

だから「自分の代わりなんかいくらでもいる」をポジティブに捉えて「替わりの仕事もたくさんある」を行動のモチベーションにして、いろんな道を試してればよかったと考えているのです。

楽な方がいいに決まってる

僕は、あまり働きたくないのですよ。
働きたくないからこそ、ツメツメで働いて、働かなくてもいいときが来ることを心待ちにしていたような部分があります。

50代半ばにしてなんとなく、もう働くことをやめても生きていけるな、という感触を得ることができました。
「最低限度の生活はできるかも、決して豊かではないな」程度ですけどね。

そうすると今度は、働かなくてもいいからこそ、体験してみたい「働き方」みたいなものが芽生えてくるんですよね。
それがこのブログのあちこちに書いている「生産的な趣味」ってことなのです。

働くことはイヤでも、働くことで得られる「楽しさ」とか「自己実現」「承認欲求」などは残したいものなのですよね。そして、楽しくないことはもう仕事にしないのですよ。

楽に楽しさを得ることに集中したいのです。

自分のポジションを「代わり」の人にあげたら、僕は新しい「替わり」の仕事をはじめることができるのです。

自分の存在意義なんて、ずっと同じところで感じ続ける必要ないのですよ。
新しくて、もっと楽しくて、もっと楽なところに移動していったほうが、いっぱい体験できるし、自分のステージを上げることもできる。

もっともっと人生が楽しくなるような気がしているのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。