「一緒にやろう」っていう人が、たぶん嫌い
2019.09.11
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。何かを複数人で「一緒にやろう」ってなるためには、相互理解だったりとか準備動作が必要だと思うのですよ。それを安易に「一緒に、一緒に」言ってくる人が不快なのです。例外もたくさんあるので、言い切ることが難しいのですが「たぶん」嫌いなのです。
「一緒にやろう」なんて、これまで何回もありました
ずっと上手くまとめることができない感情があります。
「一緒にやろう」っていう人が、たぶん嫌いなのですよ。そう「たぶん」なのです。
誰かと何かを一緒にやってきたことなんて、これまで数え切れないほどありました。
自分ひとりでできることなんて、ほとんどありゃしないのです。
一緒にやることでパワーが生まれるし、成果を上げたあとの喜びも感動も、掛け算で増えていくような経験は何度もしています。
なので「一緒にやること」は、嫌いではないのです。
これまで、何度もいろんなことを、いろんな人たちと一緒にやってきたのですから「一緒にやろう」って、何度も言われてきたし、僕からも何度もお願いしているのです。
多くは場合、心地よく「是非」と手を取り合うことになるし、残念ながら途中で分解する場合でも「残念だけど…」と名残惜しさは感じるものの、嫌な気になることは稀でした。
おそらく、最初からソリの合わなそうな人を避けた上で「一緒にやろう」を始めてるからなのでしょうね。
昔「連れション」が嫌いだった
小学校とか中学校時代「連れション」って文化ありませんでした?
ググってみたら、出てきたのでそこそこ一般的なことかと思います。
連れション
連れションとは、連れ立って一緒に小便に行くこと。
出展:連れション(つれしょん) – 日本語俗語辞書(2019年9月11日現在)
僕、これが嫌いだったのですよ。なんでだろ?
「トイレくらい自分のタイミングで行くよ」とか「待ったり待たれたりするのが、分かってるのに、なぜ複数人で行く?」とか、いろいろと理由っぽいことが考えてましたが、たぶん「一緒にトイレ行こうって言いたがるやつ」が嫌いだったんですよね。
別に、偶然トイレで一緒になって、そこで始まった話しを続けるために、互いの用足が終わるのを待ったり待たれたりすることについては、特になんとも思わないのです。むしろ「話の途中で、どっか行くな」くらいのことは思いますよね。
「たぶん嫌い」の「たぶん」の部分
「連れションが嫌い」と似たようなものとして、同窓会等で「今、なにやってんの?」という話になったときに「へえ、Webデザイナーやってんだ。オレの伝手にホームページ制作やってる人いるから、今度紹介するよ」みたいなことをいう人が嫌い、というのがあります。
客観的に見れば「仕事につながるかもしれない人を紹介しようとしている親切な人」なのではありますが、僕も、フリーランスになりたての頃ならいざしらず、それなりに組む相手も、取り組む案件も取捨選択した上で、生き延びてきているのですよ。
フリーランスといえども、なんとなくのチームらしきものに属しているし、その中でスケジュールを過不足なく融通できる働き方を構築しているのです。
数10年間、名簿でしか認識したことない人から「今度紹介するよ」と言われても、正直ありがた迷惑なのです。
本当に紹介されたとしても、十中八九断ることになるのです。その手間を考えると、気が重いのです。
某コンビニで定期的に「何かが当たるキャンペーン」をやっています。
あれ、嫌いなのですよ。欲しくもないものが「当たってしまう」からです。
一度「これ要りません」というと、「では別のものに…」と他の当たりくじを探し初めて、よけいメンドくさいことになったことがあるので「そっすか、ありがとうございます」ともらって変えることにしてますが…。
「一緒にやろう」っていう人が、たぶん嫌い、の「たぶん」の部分って、この「欲しくもないものが当たる」感覚に近いのですよ。
いつかどこかで「当たって嬉しいもの」と、めぐり会えそうな気もするので「絶対」ではなくて「たぶん」くらいなのです。
「連れション」も「仕事紹介するよ」もこれなのです。
僕は自分で思いついたことを、自分の思い通りにやるのが好きなのです。
だから、そうでないヤツと反りが合わないし、周囲からノイズを持ち込んでくるヤツが嫌いなのです。
そして、安易に「一緒にやろう」というヤツの「自分で決断してない感じ」も不快感を増幅させてくるのです。
でも、僕の想像を超えた状況がやってくることもありえるから「たぶん」なのです。
結局、一緒にやることになる人々
冒頭で「誰かと何かを一緒にやってきたことなんて、数え切れないほどありました」と書いているように、なんだかんだ言いながら、チームらしきものはできてくるものなのですよ。
一般論として語って差し支えないと思いますが、自分の持ち場がない人と組むことなんてありえませんよね。
それは「技術」だったり「センス」だったり「アイデア」でもなんでもいいのです。
専門分野に対する実績、熱量、相対したときの心地よさみたいなものが、複合的に必要とされるはずなのです。
そういうものを「持ち場」というのだと思います。
ときには「あの人、人脈だけはスゴイんだよね」って人がいたりすることもありますが、そういう人って往々にして人脈「だけ」じゃありませんよね…。
「一緒にやろう」って言われて「あ、こいつ嫌い」ってなるときって、そういう前提条件を抜きにして「一緒にやろう」って言い出しちゃうからじゃないですかね?
順番は逆になっても構いませんよ。
「一緒に…」って言いだしたあとで「実はオレ、こういうのやって来てるし、こういうこと考えてるんだ」でも全然構わないのです。
そのときは「へえ、そうなんすね…」で流れても、後から信頼ある別の人が間に入ることで、話がまとまることもありますしね。
どれだけ意見を交換しあっても「組めるポイントないな〜」とか「なんかこの人、匂うな〜」を払拭できないままに「一緒に。一緒に」いう人が嫌いなのですよ。
それよりも、ファーストインプレッションで「あ、こいつダメだ」って感じちゃった人は、そのあとどんな意見を交わそうが、誰が仲介に入ろうがダメですけどね。「ならば、オレが抜けますね」ということだってあります。
僕はこれでも、フリーランスになって20年以上が経過しています。それなりに自分の地雷探査装置の性能を信頼しているのです。当然、作動すべきところで作動してくれなかったことも、何度もあります。そのたびにアップデートされているはずなのです。
誰かと何かを「一緒にやる」って難しいのです。でも、だからこそ成果に至ったときに「楽しさ」も「感激」も、ときには「悔しさ」だって倍増するのです。
それを自己中心的に壊してくるヤツが嫌いなのです。
もちろん、現実的には例外が多々あったりしますが、概ね、そんな感じで考えています。
僕はこれから、いろいろと新しいことを始めようとしています。こちら側から「一緒にやろう」と言うことが増えるはずなのです。
まずは、単体で経験を積み、自分なりの「持ち場」を作るところから始めようと思っているのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。