続けること。やめること
2019.09.27
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。何かを続けていないと、成果を得ることはできません。しかし何かを続けたからといって、成果を得られるとは限らないのです。「続ける」ことって、難しいのですよ。ところが、一定期間続けてしまうと、今度は「やめる」ことが難しくなってしまうのです。
50代半ばまでやってみて、この程度か…
ずっと「無職になりたい。次の景色を見に行きたい」などと言い続けていても、ホントに無職になってみると、寂しさを感じたり、やり残したことを悔いたりするものなのですよ。
僕は「運がよかった」のですよ。
子供時代から「絵がうまい」「センスがいい」「工作が上手」な人たちが集まってきて、ふるい落とされて、残った勇者たちがさらに研鑽して、またふるいに…というフィールドで、よく生きてこれたと思います。
(参考:何歳になってもコンプレックスを克服できない)
デザイナーという仕事は、成果物がはっきりと目で見えますから、言い逃れができないんですよね。
「オレには才能があるんだけど、代理店のディレクターと反りが合わなくて干されちゃった」とか「こういうのって、結局コネだし、口が上手いやつに仕事持っていかれちゃうよね」などと、仕事をもらえない理由を並べ立てる人がいたとしても、成果物を見れば、その腕は一発で見抜かれちゃうのですよ。
そして、その評価は必ず「次の案件の依頼」というカタチで現れるのです。
まさに「仕事の報酬は仕事」なのです。
サラリーマン時代の10年弱は、社内の案件だけやっていればよかったので、市場に身を晒していた感覚には乏しいのですが、フリーになってからの20数年間。本当に恵まれていたと思っています。
ただ、一方で「そっか。50代半ばまで、ひとつのことをやり続けても、この程度か」という自己評価も持っているのですよ。
フリーになった20年前には、もっと大きな自分になることを想像してたはずなのですよね。
「なんだ、そこそこだったな」というガッカリ感を否めないのです。
どうしても「20年も食えたんだから、いいじゃないか」という満足感を打ち消してくるんですよね…。
この仕事を20年も続けて良かったのか? それとも程よいところでやめてた方がよかったのか? 今となってはどうすることもできませんが、現実とは、そんなものなのでしょう。
「続ける」ことは難しい
以前『フリーランスになりたいと言ってくる人には「やめとけ」と答えます』という記事で書いたように、新しい世界に飛び出す勇気は絶対に必要なのですが、問題はその先「生き残る(=食っていく)」ことなのですよね。
「やりたいことをやる。好きなことで生きていく」ことと、「食えるようになる」こととは、別の話なのですよ。
食えなければ「続ける」ことはできないのです。
食っていくためには、他人からの評価を得て対価をもらう必要があるのです。
そして、その対価によって、自分の生活を支えることができなければ「続ける」ことはできないのですよね。
でも一部の天才を除いて、多くの人が続けなければ「食える」ようにならないのです。
そして、続けたからといって「食える」ようになるわけでもないのです。
この見極めが難しいのです。
僕も開業当時、数年間まったく食えませんでした。
運良く「食えるようになる」に達したから良かったようなものの、食えないまま数年経過していたら、おそらくフリーデザイナーの道をあきらめて、(以前より条件の低い)サラリーマンに戻ったか、別の仕事を探したでしょう。
(参考:フリーランスになったころの失敗を記して、平成時代を後にしよう)
「食ってく」ために必要な条件も、きちんと見極めないと「続ける」ことはできません。
家族が何人いて、全員が食っていくためには、自分がいくら稼がなくてはならないのか?
そして、将来の資産形成ために「食う」以外にいくらの余剰金を稼がなくてはならないのか?
状況は刻々と変わっていきますので、常に「このまま続けていいのか?」を自分自身に解い続ける必要があるのです。
そして「やめる」も難しいのです
前項で述べたように、僕はフリーになって「食えるようになる」まで、数年かかっているのです。
ようやく開業当時の目標だった年収1,000万円を超えたのが、4年目です。
結果論としては「3年目で折れなくてヨカッタ」なのですが、逆に考えると、あのとき3年目でやめる決断なんか、できるわけなかったのです。
「埋没費用(サンクコスト)」という言葉があります。
埋没費用:
埋没費用(まいぼつひよう、英: sunk cost 〈サンクコスト〉)とは、事業や行為に投下した資金・労力のうち、事業や行為の撤退・縮小・中止をしても戻って来ない資金や労力のこと。
出展:https://ja.wikipedia.org/wiki/埋没費用(2019年9月27日現在)
3年間コツコツと継続すると、その3年間が無駄になることが怖くて「やめる」という決断ができなくなるのですよ。
そしてチマタには、いろんな言葉が言い訳として用意されていたりするのですよ。
- 好きだから続けてる
- まだ夢の途中
- 自己実現
- 自分らしさ
非常にポジティブで、何かを始めるときに動機としてよく使う言葉なのですよ。
事実、僕もこのブログ内で多用しています。
前項で「続けるは難しい」と書きましたが、ある程度続けると、今度は「やめるは難しい」になってしまうのです。
「続ける」よりも「やめる」が難しい…かな?
「いつか、これで食えるようになりたい」
僕がフリーランスになった当初、さんざん思ったことです。
今日もきっと「これで食えるようになりたい」とフリーランスの道を歩み始められた方がおられることでしょう。
僕がそうであったように、始めからすぐに「食える」ことは稀なのですよ。
それどころか「収入が1円もない…。マジか」という現実に直面する方も珍しくありません。
僕は運良く、食えるようになったので、50代半ばまで続けてこられました。
このブログ内でも、あれやこれやと「思い出」について書いています。
以前「僕が書いてることって、生存者バイアスですよ」という記事を投稿したことがありますが、僕が語ることは文字通り「生存者バイアス」なのですよ。
「フリーのデザイナーで食っていきたい」と思い行動し、どうにかこうにか食ってこれたのは「運」です。
ブログ内で書いている、あれやこれやは、あくまでも体験談と僕が考えたことの記録なのあって、決して再現性があるものではないのです。
僕は「続けることは難しい。同様にやめることも難しい」ということは、なんとなく肌感覚で理解していますが、冷静に決断して、正しい結果を導いたことは一度もないのです。
「いつかこれで食えるようになりたい」と、淡々と努力を継続していたら、気がつけば生活できていたという話を聞くことって多いと思います。
できなかった人って、あまり失敗を語りたがりませんからね。
結果、世の中には「望めば叶った」話に埋め尽くされることになるのです。
こうして「続ける」と「やめる」を比較してみると、なんとなく「やめる」の方が難しいかな、という気がしています。
「上手くいった、ウヒョー」ならば続けるに決まっています。「失敗した。ダメだ、死ぬ」ならばやめるしか選択肢がないのですよ。
一番問題なのは「カツカツ食える」とか「ビミョーに赤字だけど、好きだから」といったところの人たちですよね。
「このまま続けていれば、そのうち上向く。これで食えるようになる」と思いがちだし、前項で述べたサンクコストも積み上がってしまっていますからね…。
その辺りが「他にもう一個、並行して何か始めるかな」みたいなことを考え始める時期なのかもしれません。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。