ありがた迷惑は断ろう、誰も得しない
2019.09.30
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。ありがた迷惑のほとんどは、相手に不要であることを伝えることで解消されます。それで気分を害するような人ならば、人生交わる必要もないと思うのですよ、嫌われ遠ざかってくれれば、不快の種がひとつなくなって人生が快適になるはずなのです。
要らんことをされるのが嫌いなのですよ。
その中には「他人からの親切」や「よかれと思って」的なものも含まれます。
おそらく、人生最初に感じた「要らんことすんな」は、保育園に通い始めたころの「ハンガー事件」でしょうか。
3歳か4歳くらいの頃ですね。
子供用の洋服ダンスを買ってもらったのですよ。
幼稚園・保育園に通うような年齢になると、着るものも増えてくるし「遅れないように、自分で服を着なさい」みたいな教育が始まりますからね。
その洋服ダンスは、一部がクローゼットになっていて、5色程度の色違いのプラスチックハンガーが付いていたのです。
よく見ると、青が2つあって、そのうちのひとつがちょっと形状が違ったのですよ。
どういう質問の仕方をしたのかは覚えていませんが、父親から帰ってきた返答は覚えています。
「赤は女の子色だから、一緒に買った○○ちゃんの青とかえっこしてあげた」と。
そのときに覚えた違和感。
青が二つある不自然さなのか? 形状の不揃い感なのか? かえっこの選択権が自分になかったことなのか? いまいちよく憶えていませんが、これがおそらく人生最初の「要らんことすんな」体験だったのです。
違和感のある青ハンガーをゴミ箱に捨て、怒られ、泣きわめいて意思を伝えた数日後に赤ハンガーと交換されていました。
「ありがた迷惑」と「心配り」。ぜんぜん違うものですよ
おそらく父親は、そうすることで僕が喜ぶと思ったはずなのですよ。そして「女の子色」である赤ハンガーを増やしてあげた○○ちゃんも、喜ぶだろうという話を交わした上での交換だったと思うのです。
良かれと思って、そうしたのですよ。
「要らんこと」の多くは、相手は良かれと思ってますよね。だからやっかいなのですよ。
悪気がないどころか、むしろ優しい心が引き起こしてるのです。とても親切なことの場合が多いのです。
なのに、優しさの方向が間違っていたり、自分勝手に判断していたり、するから受け取る側は不快感を感じるのですよね。
前項の「ハンガー事件」のときの父親が僕に見せた、愛想笑い混じりの戸惑った顔を今でも憶えています。
だから僕は、あれが初めての「要らんことすんな」という意見の表明だったのだろうと確信しているのです。
明らかに父親は「喜ぶと思ったのに…」という表情をしていました。
その後、僕も少しずつ成長し「要らんことすんな」という気持ちはあるものの「まあ、先方も悪気があるわけじゃないんだし…」と、自分の感情を抑えるようになり、いちいち指摘することもなく、特別な場合を除いて、自分の中で不快感を処理してきました。
最近「もっと自分に素直になっときゃ良かったな」と昔を思い出して、反省することが多くなってきているのですよ。僕も50代半ばで無職になり、社会と切り離されたことも影響しているかもしれません。
「それ、ありがた迷惑ですから、辞めてください」と伝えたほうが、人間関係がもっとスムーズだったんじゃないかな? と思う場面をたくさん思い出しているのです。
逆に僕の側も「あれって、ありがた迷惑だと思われてたかもな。あのときは心配りのつもりでいたんだけど…」ということも思い当たるのです。
「ありがた迷惑」と「心配り」は、送り手は、同じ優しさ、親切心から出るものなのですが、受け手にとっては、まったく異なる印象を与えてしまうのですよね。
基本、ほっとかれたいのです
人によっていろんなパターンの「ゆるせないありがた迷惑」があると思うのですが、僕の場合は、大きく「物を送られることと」と「為そうとしている決定に踏み込まれること」の二つですね。
かつて、このブログでも近いことを書いていますので、よろしかったらご一読ください。
誰だって、人から親切にされたり、気にかけてもらうと嬉しいものなのですよ。当然、僕だってそうです。
ただ「干渉が過ぎるな」とか「なんかちょっと、距離感おかしくない?」などと思い始めると、とたんに不快さが増してしまうのですよ。
たとえば「今度、東京に行くことになったのですが、お土産何がいいです?」と聞かれると、僕は「要りません。お気遣いなく」と答えてしまうのですよ。
真意は「要りません。手荷物が増えるのが嫌だし、自分が選んでいないものが自宅に置くことが不快なのです」なのですが、なかなかそこまで言えませんよね…。
そうすると相手は「いえいえ、ご遠慮なさらずに」みたいな返しをしてきますよね。
そして「〇〇が有名で、美味しいですよ」みたいな情報を伝えてくれるのですが…。
ここで僕は「さっき『要らない』って言ったじゃない、この話まだ続ける?」ってなっちゃうんですよね。
ずっと「先方に悪気はないんだし、ちゃんと話を聞かないと」「もし、当日お土産持ってきたら、とりあえず喜ぶふりはしよう」と思ってきたし、そうしてきました。
あまり気乗りがしないのに、です。
不快であることをちゃんと伝えよう
ここ数年は「物要りません。人から物をもらうのが嫌いなのです」とか「それ自分で考えて、自分で決めます。あなたとの会話を続けません」みたいなことを他人に告げるようになりました。
オッサンになって、若いころに持っていた羞恥心みたいなものが薄らいでいるからということもあるでしょうし、断る用の言葉を多く準備できてるからなのかもしれません。
なによりも、その方が物事がスムーズに運ぶことが多いことを知ったからだと思うのですよ。
50代にもなって、こんなことを思うのは少々こっ恥ずかしいのですが、もっと若い頃から「要りません」「自分でやります」「あいがた迷惑です」をもっと言っていればよかったと思っています。
逆の立場で考えることもできるようになりました。
僕が20代30代の方から「それ、自分で決めるんでほっといてください」って言われても、普通に「オッケー」で流せるんですよ。
自分が若い頃は「年長者からのアドバイス。無碍にしたら悪い」なんて思ってましたけどね。
ありがた迷惑のほとんどは、相手に不要であることを伝えることで解消されます。
当然、両者の時間の無駄、感情の無駄も発生しません。
「我慢して受け入れる」ことなんて、百害あって一利ないのです。誰も得しません。
もし「それ、ありがた迷惑です」と伝えて、気分を害するような相手ならば、その人は「親切の押し売り屋さん」です。「親切な自分」を楽しんでいる人なのですよ。
そういう人と人生交わる必要もないと思うのですよ、嫌われ遠ざかってくれれば、不快の種がひとつなくなって人生が快適になりますね。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。