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人は、変わりたいのか? 変わりたくないのか?

2019.10.14

こんにちは、萩ドットライフ()です。

ルーティーンだ、継続だ、と「変わらない」ことを重要視してみたり、正月には「今年の抱負」を述べてみたり、人はいったい、変わりたいのか? 変わりなくないのか? よくわからなくなることがあるのですよ。そのあたりについて考えていることを。

長年の習慣を変えるのは、億劫なものなのですよ

人って、なかなかすぐに変われるものじゃありませんよね。

仕事に対する取り組み方でも、金銭感覚、恋愛観、好きな食べ物だったり、人の好き好きなど、様々なクセがあるものなのですよ。

それらは長年かけて形成されてきたものです。

過去を振り返って、20年前の自分と比べてみると、大きな違いを感じたりもしますが、先月の自分とくらべてみても、さほどの違いはありません。

考え方とか信念のようなものは、環境だったり経験だったり、加齢などによって少しずつ変わり続けていくものなのですよ。

僕の人生の中で、ある日突然生活習慣がガラッと変わったのは「早起きは三文の徳なのか?」で書いたように、40代後半にパニック障害を発症したときだけです。
このときは、一夜にして朝型生活をするようになり、タバコが吸えなくなりました。
また、その日以来、定期的に管理のための通院をするようになりました。

数年、数ヶ月の単位で、大きく働き方が変わったのは、20数年前にフリーランスになったときと、無職になった今です。
働き方を変えることで、将来のビジョンの描き方が変わったような気がしています。

先日「断捨離を実行することにします」という記事を投稿したように、行動にも影響が現れてきています。

そもそも「今やっている、この方法で正しいのだろうか?」と自問自答するものって限られていますよね。
ショッキングな出来事が起こったことの周辺か、好奇心によって動機づけがなされたものかの、どちらかだろうと思うのです。

それ以外のことに関して、概ね「いちいち考えるのメンドくさいよ」な事だらけなのですよ。

僕はもう何年も朝に入浴する習慣があるのですが、「朝の入浴と夜の入浴の効果の違い」なんて考えたことありませんもん。
おそらく重要なことだろうとは思うのですよ。
入浴はストレスを軽減する効果がありますし、身体を清潔に保つという健康上の役割も担っています。
しかも、毎日のことですから、おそらく朝か夜かで、それぞれの善し悪しがあるはずなのですよ。

でも、そんなこと一切考えたことありません。
「入浴のタイミング」なんて、今のままで問題ないことをいちいち考え直したり、習慣を変えたりするのが億劫な領域に属していることなのです。

よく「人間は変わりたくない生き物だ」みたいな言説を見聞きしますが、なんとなく「まあ、その通りだな」と同意できてしまうのです。

「今年の抱負」とか、考えません?

ところが皆さん、正月とか誕生日とかに「今年はこんな年にするぞ」みたいな決意表明したりしません?
他人には言わなくても、自分の中で「今年は10kg痩せよう」とか「ずっと先延ばしにしてた、あの資格とろう」みたいな感じのやつ。

「どうせ、ひと月後には忘れちゃってるよ」と思いつつも「今年は…」って考えちゃうもんなんですよね。

なんかの節目じゃなくても、知人がいいマンション買ったら「ヨシ、オレも頑張って…」とか、仕事仲間が病気になったら「自分も酒控えるかな」みたいなことを考えますよね。

前項で「ショッキングな出来事が起こったことの周辺か、好奇心によって動機づけがなされたもの」くらいしか善悪について考えないと書きましたが、それに「節目」を加えて、いくつかの「変わりたい」トリガーはあるようです。

快・不快で判断しているものって、それほど自分にとっての変化には繋がらないように思うのですよ。
心地よければ、そのまま思考停止して習慣化してしまうし、不快であれば距離を置いて、視界の外に追いやってしまいますからね。

それが善悪で判断しなければならなくなって、そして「今の状態は、自分にとって悪だ=変化することが善だ」と考えはじめることで「変わりたい」トリガーが引かれるのではないでしょうか。

そして、人はみな「豊かな人生、善き未来」を望んでいるので、自分の生活を善悪で判断すべきタイミングなんて次々と訪れるものなのです。
なので、人には「変わりたい」が常に内在しているはずなのです。

それをたまには思い出しましょうというのが「新年の抱負」みたいなもんじゃないでしょうかね。

たぶん「変えられたくない」のです

往々にして「新年の抱負」とか「○歳の誓い」みたいなものは叶わないのですよ。

僕は50代半ばなので、物心がついてから数十数百の抱負や誓いや、夢のようなものを持ったり述べたりしたはずなのですが、それがいったい何だったのか? ほぼ憶えていませんし、ましてや叶ってる感じもサラサラありません。

せいぜい「フリーのデザイナーで20年、食っていけたな。ヨカッタ」程度でしょうか。

たぶん夢って、Lv1の夢が叶うと、その上にLv5・Lv10と次々と高いステージの夢を被せちゃうもんだから、その過程でLv20の夢で挫折したら、かつてLv1の夢を持っていたことも流れて行っちゃうんでしょうね。
夢そのものを忘れちゃうか、「叶わなかったな」という記憶だけが残るか…。

そんなのばっかりですよ。

それでも人は抱負を述べるし、夢を持ち続けるのですよ。
なんだかんだ言いながら「変わりたい」のだろうと思います。

過去を振り返りながら「あのとき、もっと強く『変わりたい』と思っていれば。そのように行動していれば」という後悔が山ほどあります。

「なにやってたんだ、30代のオレ、40代のオレ」と、50代の僕が思っているのですから、10年後には「なにやってたんだ、50代のオレ」と思うはずなのですよ。

たぶん、死ぬまでずっとです。

ちょうど僕は今、無職になったり、長期休暇を取ったり、セミリタイアを宣言したり、いろいろと「変わりたい」を行動に移している最中なのです。

20年前、フリーランスになることを決めたときもそうだったように、少なからず「現状維持」を勧めてくる人たちが登場します。
その多くは、僕が変わることによって、その人がやってることにも影響が及ぶ人だったりします。

そんなとき「やはり人は変わりたくない生き物なのだなあ」と思ってみたりもするのですが、そうではないのですね。「変えられる」ことがイヤなのです。「変えられたくない」なのです。

自分に置き換えても「そりゃそうだな」と思いますもん。

「変えられたくない」人も、おそらく自身では「変わりたい」と思ってるはずなのです。

僕は、

  • 人は「変わりたい」と思っている。でも行動すると、他人の「変えられたくない」とバッティングするよ
  • その「変えられたくない」人も、自分では別の「変わりたい」を抱いているはず
  • だから他人の「変わりたい」という行動を快く後押ししようぜ!

なのだと心得ています。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。