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自分で決めたことなら後悔しない、たぶん…

2019.10.27

こんにちは、萩ドットライフ()です。

何かを決断するとき、他人の存在を気にしないで自分で決めたことのほうが継続しやすいし、後に失敗に終わったとしても後悔に至らない。その方が楽チンだと思うのですよね。でも、現実はなかなかそうもいかなかったりするのが難しいところなのです。

自分で決めるほうが楽

「自分のことは自分で決める」なんて当たり前のことだと思っています。
少なくとも、僕はそう思ってきました。

その方が楽なのですよ。

僕は現在50代半ばなのですが、半世紀を超えて生きてきていると、さほど人付き合いのよくない僕でも、それなりの数の人と接してきたことになります。
中には、人生の選択を他人に委ねているようにしか思えない方と出会ったこともあります。

相談という名目で人を呼び出して、あ〜でもないこ〜でもないと。

おそらくその人、自分がやりたいこと、歩き出したい方向、たぶん心の中でわかってるはずなのですよ。
ただ「自分で決める」ということに躊躇してるだけだと思うのですよね。

自分で決めて、その通りに行動すれば当然そこには責任が生じます。
絶対に他人のせいになどできるはずもありません。

「○○さんに、相談したら賛成してくれた」とか「上司に言われた」「友達に勧められた」、中にはずっと両親に進路を決められてきた方とか、交友関係、結婚相手、職業などに干渉されてきた方もおられるかもしれませんね。

そうやって、決断に他人を介入させてしまうと、もし自分が上手くいかなかったときに、他人のせいにしてしまいがちだし、自分の失敗から目を背けることになってしまうのですよ。

単純に「自分の失敗」と向き合うだけでは済まず、いろんなノイズが発生してしまうのですね。

だから僕は「自分のことは自分で決める。結果はすべて自分で引き受けるほうがラク」だと思っているのです。

一貫性のない半生でしたが、そうでもないのです

僕は約30年程度、デザイナーとしてメシを食ってきました。
30代半ばでフリーランスになりました。
それからの20数年間は、フリーランスのデザイナーとして生きてきましたが、長い休みを取るために先日引退し、現在は無職になっています。
(参考:「無職」って言っちゃうとウソになる。でも言いたいのです

割と身勝手に「自分のことは自分で決める」を繰り返した人生だったと思います。
そのために失った関係もありますが、まあ仕方ありませんね。

大学進学のときも、教員が偏差値で進学先を選ぼうとする中、頑なに「バレーボールやりたい、将来は指導者になりたいから、体育学部行く」と主張しましたし、それがいつしか「教員になるのやめた、自分の会社持ちたい」「体育学部卒だけど、デザイナーになりたい」に変わっていくのです。

デザイナーになってからも、フリーランスになった直後は「デザイナーの仕事、エンドユーザーの顔を見られないからツマンナイ」と、舞台公演のプロデュースをしていた期間もありましたし、ちょうどインターネットの登場の時期でしたから軸足をグラフィックからWebに移したりしています。
(参考:Webはチャチくてダサかった

自分事ながら「一貫性がないな〜」と感じます。

でも、ちょっと違うのですよ。
確かに一本道ではありませんでしたが、「社会の変化に反応した」そして「自分で決め続けた」ことで一貫してるのです。
ずっと「楽しそうな方へ」「後悔しない方へ」「楽な方へ」向いて歩いているつもりなのです。

正しかったか間違っていたかは、謎ですけどね。

決めたけれども忘れちゃってること、多いかも

ところがですね、こうして「オレは、これまで自分のことは自分で決めてきたぜ」という話を展開しているのですが、毎日ブログを書くようになって気づいたことがあります。

自分で決めたことを忘れてしまっていることが多そうなのですよ。

以前「努力なんて続かないに決まってる」という記事を投稿したことがあります。
「努力が快楽にならないと、継続できないよ」みたいな記事だったのですが、その中で

今週のはじめからダイエットを始めることにしたのですよ。
もう何年も、朝ランの習慣を持っているのですが、体重が増加中なのです。加齢のせいでしょうかね、代謝が運動量に追いつかなくなってるっぽいのです。
(中略)
お酒を飲むと、ずっと何かをつまんでいたくなりますし、酔が満腹感を麻痺させて、食事量が増えがちになりますからね。なので、まずは「酒を断とう」と。
加えて、夕食は炭水化物抜き。この2本立てで始めてみました。

って書いていました。

この記事を投稿したのは約半年前なのですが、ダイエット? 禁酒? 炭水化物抜き? 「これ、誰が書いたの?」と思うくらい、きれいサッパリ忘れていました。

「達成した」とも「失敗した」とも思ってないのですよ。だって、忘れてたんですから。
ダイエットなんて、人生の転機にはなり得ないほどの小さな決断だから軽んじただけのようにも感じますが、今から思い出せば、確かに習慣化し始めていました。

PC内にも表計算ソフトで作ったグラフが残されていました。
でも、いつ辞めてしまったのかが思い出せません。グラフを見れば、2ヶ月程度続けていたことは分かるのですが「ハテ?」という感じなのです。

この記事「自分で決めたことなら後悔しない」というタイトルで書き始めたのですが、「たぶん」と付けることにします。

「達成」にも「失敗」にも至らずに忘れ去られているものが、いっぱいありそうなのですよ。

以前投稿した「新しい感情」の中で、やろうと決めたけれども行動に至らなかったものや、行動したけれども上手くできなかったことを「心の熾火(おきび)」という言葉を使って書いたことがあるのですが、それも「憶えてる限り」に過ぎないのですよね。

自分の中で辻褄があってりゃそれでいい

僕は「自分で決める」よりも「他人を介在させたくない」という気持ちが強い質(たち)だと思っています。
他人に「あ〜したほうがいい、こ〜したほうがいい」と言われると、ぜんぜん楽しくなくなるのですよ。
だからアドバイスしたがる人が嫌いだし、求められるのも気が重いのです。
(参考:アドバイスって役に立ちませんよね

ものごころ付いた頃からなので、たぶん死ぬまでそうです。

むしろ、年を重ねるに連れ「これって誰かを喜ばそうと思ってないか?」とか「他人のイメージに自分を合わせようとしてないか?」などと考えることが多くなり、どんどん拗らせていってる感じもします。

その辺は、ゼロにはできないので、適当なところで折り合いを付けるようにはしてますけどね。

「誰かを喜ばせたい」は、自分の意思と合致していることも多いので、むしろ物事を決めるための有力な要因になっていることもあります。

「消費者やクライアントを喜ばせたい」は、職業人として当然のモチベーションですからね。
「上司を喜ばせたい」「親を家族を喜ばせたい」「アドバイスしてくれた知人を…」となると、ケース・バイ・ケースでしょう。

あまりにも他人の存在が肥大化してくると「そろそろこれ、辞めたほうがいいな」と思い始めちゃうんですよね。これも「焼きが回ってる」状態のひとつだと思うのです。

他人を気にすると、身動きとれなくなっちゃうんですよね。

上述の通り、僕はずっと一貫性のないキャリアを歩んできています。
「ムリなんじゃない?」とか「今までやってきたことが無駄になっちゃうじゃん」みたいなこと面と向かって告げられたこともありますし、あるときは僕のいない場所で酒の肴になっていたこともありました。

でも結局「自分が思った通り」が正しいのですよ。
あまり他人のことは視界に入れずに、自分の中での辻褄さえ合っていれば、それが一番楽ちんなのです。

やる決断も、やめる決断も、どちらも同じですね。

僕は今回、無職になるタイミングで「やめる決断」をしたのですが、少し他人の存在を気にしすぎたようにも思います。
なので少し行動が遅れたのかな? と。

でも、これまでの僕の職業人生に伴走してくれた人たちのことですから、充分すぎるほどに気を配ることは当たり前だと考えていました。
一方で「好感度なんてクソくらえ」と思いつつ、もう一方で「尽くすべき礼は、きちんと尽くそう」と思うものなのですよね。

これもまた「自分で決めたこと」なのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。