僕のことなんか、誰も見ていない
2019.11.03
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。他人の評価を気にしてしまい、足がすくんで行動を躊躇してしまうような場面で、それを諌めるように浮かんでくる言葉が「僕のことなんか、誰も見ていない」なのです。さほど重みを感じる言葉でもありませんが、僕はこれに何度も救われているのです。
自分で思うほど、他人は自分のことを気にしていない
なんかしらの行動を起こすときに、ちょっとだけ自分の背中を押してくれる言葉があって、それが「僕のことなんか、誰もみていない」なのですよ。
「誰も見ていないのだから、少々悪いことをしてもバレない」でも「誰も見ていないときにこそ、善い行いをしましょう」でもなく、単純に「誰も、オレのことなんて気にしていないよ」という意味です。
ごく当たり前のことなのです。
当たり前過ぎて、どこでこの言葉と巡り合って、どうして事あるごとに「ダレもミテイナイ」と心の中でつぶやくようになってのか憶えていません。
幼少期から学童期くらいにかけて、他人の目を気にしながら、他人が望むような行動をするような子供だったと思います。「思います」というのは、あまりその頃の記憶が鮮明ではないのですよ。
それなりに、自分の思うことは主張してきたようにも思うけれども、自分を他人の物差しに合わせながら成長してきたような気がするのです。
具体的に「そういえば、こんなエピソードが」みたいなことではなく、なんとなくボンヤリとです。
おそらく、中学生になるくらいになるあたりから、周囲を冷静な目で見ることができるようになったんだでしょうね。
確かに「僕のことなんか、誰も見ていない」のですよ。
僕が他人にどう見られているかを気にするほど、他人は僕のことを見ていないし、偶然見たとしても印象にものこらいのです。
だって、自分が他人に対して、そうなんですもん。
関心がないのです。だって単なる他人なのですから。
ちゃんと見てくれている人は、すでに友人関係を築いていたり、互いに意識し合っている人なので、僕が何をしようが、理解しようとしてくれるはずなのです。
他人が自分をどう評価しているか? 気になりますよね
何か行動しようとするとき「他人にどう思われるだろう?」「人に笑われはしないか? バカにされるんじゃないか?」と考えて足がすくんでしまうことってあるんですよね。
特に、見栄を張りたいし、カッコつけたい盛りの10代20代の頃って、特にそういう傾向ありますよね。
なんかの拍子に「あれ? オレやらかしちゃった? ハズカシ」と自分ひとりで気に病むこともしょっちゅうあります。
そんなときにも「僕のことなんか、誰もみていない」という言葉を思い出すと、少しは中和されるのです。
50代半ばになった今でもそうなのですから、たぶん死にまでそうだと思います。
50歳を超えてくると人間がずうずうしく仕上がってきますので「ハズカシ」よりも「ダレもミテナイ」が上回ってくる場面もあります。これはこれで「戒めねば」とも思うのです。
日常生活の中で他人の存在を無視することって、結構難しいのですよ。
このブログ内でも何度か「人間関係の断捨離」というタグを付けた記事を書きつつ「心地良いコミュニティの中に身を置きたいな」とか「ひとりで考える時間をたっぷり確保したいな」などと考えているのですが、生きている限り、必ず他人と関わることになりますからね。
そもそも「人間は社会的動物」なので、コミュニティを作るものなのですよ。
常に誰か他人の存在を前提とした上で、自分のスタイルを形成していくものなんですよね。
(参考:「群れるの嫌い」です。みなさんもそうですか?)
だから、他人が自分をどう評価しているかということは気になるものなのですよ。
その前提を意識した上で「僕のことなんか、誰も見ていない」と打ち消すくらいが、もろもろ上手くいくような気がしています。
「オレは他人にどう思われようが気にしないぜ」と突っ張ってみるのも、なかなか良い手法だとは思いますが、これはこれでシンドイですからね。
他人の目を気にして足がすくんだときに思い出す
みんな、一番関心があるのは「自分」なのですよ。
いつも他人のことを気にして、あ〜だこ〜だ言ってる人は「自分のため」に言ってるのですよ。その人にとっての娯楽なのです。
自分の中に楽しさを見いだせるような人であれば、そんなこと言ってきませんよね。
だから「僕のことなんか、誰も見ていない」と同じように、その人のことを見る必要はないのです。
あまりにも鬱陶しければ、距離を置けばいいし、SNSならばブロックすればいいだけのことです。
こちらがエネルギーを使って、その人に対応する必要はないのです。
「僕のことなんか、誰もみていない」
特に、深みがある言葉でもなんでもありません。
「まあ、そりゃそうだわな」で済んでしまう言葉なのですよ。
ただ、人生の節目々々で、この言葉に救われているのです。
古くは、県でベスト8にも入れない高校のバレーボールチームのキャプテンだった僕が、全国で優勝するような大学チームでプレーしてみたいと、受験先を決めたとき。
その後も、
- 美術教育を受けていないにも関わらず「デザイナーになりたい」と決めたとき
- 伝手もなく、業界知識も乏しいのにフリーランスになったとき
- 右も左も分からずに舞台公演のプロデュースをしたとき
- デザイナーとして関わる分野をWebに軸足を移したとき
- その他、上手くカタチにできなかったこと、いっぱい…いっぱい
そして今、セミリタイア生活をはじめてみたり、無職になって長期休暇を取ってみたり。
なによりも、このブログを1年以上継続できているのも「大丈夫。誰も読んでないから気にすんな」と思っているからなのです。
いや、アクセス数は少しずつ増えてるので、読んでくれている人が増えつつあるのは分かっているし、励みにもなっているのですが「そういう気持ちでやってます」ということです。
かくして人生の大半を「僕のことなんか、誰もみていない」に救われているのです。
いつも心のどこかに掲げているわけではありません。
僕が他人の目を気にして足がすくんで、行動できなくなったときに、それを諌めるようにアタマにポッと浮かんでくる言葉なのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。