やることがない人になるのも、なかなか快適ですよ
2019.11.11
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。今の僕は「やることがない人」なのですよ。そして、これがなかなか快適なのです。「人生100年時代」という言葉を真に受け、職業人としての寿命もまだまだ残っていると考えています。なので、途中でこういう時期を設けることも必要なのです。
徒然なるままに…
「なるほど、徒然(つれづれ)とは、こういう状態のことをいうのか」と、高校時代に古文という授業でならった「徒然草」を思い出しています。
思い出したといっても「そういや、徒然草って作品が教材になってたな」と思ったくらいで、とくに「心に残った一節」みたいなものが頭に浮かんだわけではありません。
「だいたい、どんなお話だったっけ?」とググったら、いろいろ出てきましたが、ここでは割愛します。
思い出したのは「徒然(つれづれ)」というワードなのですよ。
徒然(読み)ツレヅレ(デジタル大辞泉の解説)
1 することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた。「読書をして病床の徒然をまぎらわす」
「―な舟の中は人々の雑談で持切った」〈藤村・破戒〉
2 つくづくと物思いにふけること。
「―も慰めがたう、心細さまさりてなむ」〈源・賢木〉
3 しんみりとして寂しいこと。また、そのさま。
「いと―に人目も見えぬ所なれば」〈源・東屋〉
出典:徒然(ツレヅレ)とは – コトバンク(2019年11月11日現在)
現代の文脈では、あまりいい意味ではなさそうですね。
単純に言えば「やることがない人」のことですから。
今の時代は、活動している人こそが正義だっていう感じですよね。
「就活」「朝活」「婚活」「妊活」「終活」。人生のあらゆるステージにおいて、それにふさわしい「活」が用意されているのです。
なんだか「成り行きでいいじゃん」という考え方はダメで、ちゃんと「活」を意識しなければならないような空気が作り出されています。
ところが今、無職の僕は「やることがない人」になっています。
なんの「活」にもたずさわっていないのですが、これがなかなか快適なのです。
過去に投稿した記事では「無職はつらい」と言ってみたり「無職は気楽」だと感じてみたりして、自分の評価はまだ定まっていないのですが、とりあえず「活動」を強制されないという1点において、とても豊かな時間を手に入れたと感じています。
このブログ内でも定期的に、あれやりたいこれやりたいと書いています。
たとえば、先日投稿した「何か作って売る、そのために伝える。そうして繋がる」だったりですね。
表現はすごく難しいのですが、さほど自分を追い立てて行動しようとも思っていないのですよ。
着々と歩は進めているし、必ずどこかでアクセルを踏み込むように思うし、行動欲みたいなものは強めに持っているのですが、それら全部含めて「成り行き」で進めて行こうと思っているのです。
しばらくは、退屈を楽しみながら、満たされない心と向き合いつつ、様々なことに思いをめぐらす、豊かな時間を楽しみたいのです。
社会や他人と足並みを揃えると、枠ができて窮屈ですよね
自分の人生の中で、アクセルを踏み込んだり、ブレーキかけたり、しばし停まって休憩したりという選択を、自分で決めたいのですよ。
人生の一時期「やることがない人」として過ごすことも、決して悪いことではないはずなのです。
個々で好きなように考えていたことを、「なんちゃら活」というネーミングをして社会的な課題にするの、「ちょっとしんどいな」と思っています。
地域創生なんかもそうですかね。
「みんなで地元を盛り上げよう」「出身地の、いろんなアレに寄与しよう」みたいなのもよく見聞きします。
すごく一生懸命やっている方もおられるし、決してそういう方を否定したいわけではなくて「僕は、そういうのに向いてない」と感じています。
たしかに、多くの人がぼんやりと思っていることが、言語化したり、イベント化して集団を形成することで強めのベクトルに化したりしますからね。
ただ、僕は「さあ、みんなで気持ちを合わせて」的な枠を感じると、とたんに窮屈さを覚えてしまうのです。
僕は今、50代半ばなので、同年代の人々はそろそろ定年を意識する頃なのですよ。
たぶんそのせいで、大小の同窓会が増えてきています。
(参考:50代になったら同窓会が増えた)
誰も口にしないけど「ああ、みんな定年後のコミュニティ作りをはじめてるんだな」という意図は伝わってきます。それに対して、何の文句もありません。
ただ、僕は「定年」という概念を持たないフリーランスだし、セミリタイアという生き方を選ぶことで、職業人としての寿命を伸ばしたいと思っているのです。
〈参考:セミリタイアの定義。仕事は娯楽(=生産的な趣味)〉
そういう人生設計の中で、今は「やることがない人」でいたいのです。
青臭いことを考え続けるフェーズなのかもです
僕は今、俗に言う「世捨て人」のようなものかもしれません。
とくに「捨てている」という意識はないのですが、世の中「やることがある人」の方がエラいということになってるんじゃないでしょうかね?
事実、僕はずっとそう思ってきて、時間が空いたり、スケジュールが空くことを恐れてきましたから。
だから、恐怖を近づけないように空いた時間を埋め、スケジュールを埋め、次々と「やるべきこと」を連ねることに腐心してきたのです。
(参考:フリーランスの僕が暇な時にやったこと)
世の中は「時間を有効活用でき」「やるべきことにあふれている」ことが、高い社会的評価を得ることができるのです。
それがこうして、無職になり「やることがない人」になると、どうでもよくなるのです。
職業人ではなくなるし、社会的評価もゼロになるのですが、その分「自分」の姿がくっきりしてくるような感覚を持ちはじめています。
「やることがない人」になっても、結局やることを探し始めるのですよ。
それは、社会的評価や収入を得るためのことではなくて、もっと素朴で根源的な動機によるものです。
「未熟」だし「粗野」なものといってもいいかもしれません。
鳥や動物が餌を取り、巣を作る行為ににているようにも感じますし、子供のころに「どんな大人になるんだろう」と将来を思い描いていた感情を繰り返しているようにも感じます。
セミリタイアすることに決めた頃から、なんとなく自分が青臭い考え方に支配されていることには気づいていたのですよ。
未熟過ぎて、過去に一度は捨てた考え方をもう一度広い集めてしまったから、セミリタイアすることに思い当たったのかもしれません。
順番はどっちでもいいのです。
「こういうのが、人生の転機ってことなんだろうな」と自覚しています。
とにかく無職になって「やることがない人」になってから、青臭いことばかり考えているのですよ。
「人生100年時代」という言葉を真に受けて、「まだもうワンゲーム残ってるな」ということに思い至ってしまったので、それも仕方ないことなのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。