自分の壁を越えるためには、それを認識できなくちゃね
2019.12.12
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。思い通りに人生を変えるためには、大小に関わらず何度でも自分の壁を越えることが必要だと思うのです。ただ、しっかりとその「壁」を認識して、どの壁を越えてどの壁をやり過ごすのかを選ばないと、ひたすら疲弊し続けることにもなりかねません。
50代半ばにもなりますと、自分の成長を実感したり、思い通りに成長できないことに焦りを感じたりすることが少なくなってくるのですよ。
鈍感になってくるんですね。
なんとなく「もう何十年もキャリアあるんだし、このへんでいいんじゃない?」とも思うし「そんなに、ガツガツせずにもっとゆったりと人生を送るフェーズを迎えてるよね」などと考えたりしてるのです。
だから僕は、セミリタイア生活をはじめて、いったん仕事を辞めて今は長期休暇中なのです。
昨日「[フリーランスの老後]人生のピークを先延ばしする」という記事を投稿したように、休むときにはゆっくり休み、むやみに劇的な山場を求めずに、ほぼ平坦ながらほんの少しだけ上向いた人生を過ごしたいなと思っているところなのです。
ただそんな、のほほんとした生活を送ろうとしているときにでも「なるほど、こんなところに壁が」という場面に出くわすことがあるのですよ。
行動すれば、なんかしらの「壁」に出くわしますね
仕事のみならず、人にはそれぞれ「あれやりたい」「こんなふうになりたい」という目標があって、そこに向かってる途中で険しい道を越えて歩まなければならない場面もあるのです。
今の僕が歩んでいるようなユルめの道だったとしても、局所的に「壁」があったりしますね。
その「壁」を認識してしまった以上、それに対応する必要があるのです。
どうやって乗り越えるか、いろいろと考えを巡らせることもあるでしょうし、回避策を練ったり、撤退の決断をすることもあります。
目の前に現れた壁、すべてを乗り越えなければならない、などとは思っていないのです。
これが前提です。
それでも「この壁を上手く乗り越えることができたら、その先の人生が楽しくなりそう」などと思ってしまいがちなのですよ。
もしかしたら、自分にはできないことなのかも知れないし、失敗してダメージを追うかもしれません。
それでも「いいや、とりあえずやってみよう」などと考えがちなのが僕なのです。
そういう性分なのだから仕方ないのです。
思えば、せっかく順風だったデザイナーという職業を「辞める」と決めたのも今から考えれば「壁」でした。
撤退戦の真っ只中にいるときは、敵に後ろを見せて逃げ回っているようなイメージでしたけどね。
この選択が正しかったことにするためには、この先の行動にかかってるので、まだまだ越えるべき壁はいっぱいあるのです。
行動し続けていれば、その先に壁があることは当たり前なのです。
でも自分から能動的に動いていると、その壁を認識しやすくなるような気がするのです。
変化する者
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」っていうダーウィンのお言葉を引用したいと思い「これで正しいんだっけ?」と念のためググってみたら、こんな記事を…。
ダーウィンの引用に関しては一見したところ曲解も甚だしいので、そもそもダーウィンがこの言葉をどこで言っているのかを調べてみた。すると、言ってなかったことがわかった。どうも誤解されたまま引用されたのがそのまま教訓として広まってしまったようだ。
出典:進化論の誤解(1)「変化する者だけが生き残る」について – フリー哲学者ネコナガのブログ(2019年12月12日現在)
え、そうなの?! どうやら信憑性に疑義アリとのことらしいのですが…。
それにしても、僕たちみんな「変化」って言葉が好きですよね。
特にビジネス的な会話をしてると、何度も何度も「変化」というワードが出て来がちです。
まず、好むと好まざるとに関わらず身の回りは変化するものなので「ちゃんと対応しなきゃね」というのが1点なのだろうと思います。
「環境」だとか「技術」「情報」「価値観」「人の心」などなど、変化するものは、たんまりあることになっているのです。
そしてもうひとつは「自分が変われば、周りが変わる」の効能ですよね。
自分が行動していれば「越えるべき自分の壁」を選ぶことができるのですよ。
周囲や他者に合わせることではなく、自分のコンディションや考え方に従って、どこに進むのか? 何を回避するのか? それとも、引き返すのか? を自分の好きなように組み合わせられるのです。
それを続けることによって、自分にとって効率よく居心地のいい環境を築くことができる、ってヤツです。
僕は概ね肯定します。
越えるべき壁を選ぶ
「自分の壁を越える」ということは、越えるべき壁を選ぶことなのですよ。
そのためには、
- 「この壁とこの壁が、行き先にあって…」と、壁の存在を認識していること
- 前を向いて自分の足で、自分の意志で行動していること
が必要なのですよ。
周囲に流されていると、いきなり目の前に壁が現れてしまい、撤退も回避も考えられぬままに、その壁を越えることの意味も分からずにガムシャラに挑もうとして、ただひたすらに疲弊することにもなりかねませんよね。
僕は、デザイナーを生業としていた頃の一時期、この状態に陥っていたような気がします。
40代後半でパニック障害を発症したり、50代半ばの今、セミリタイア生活を決断したことと無縁ではありません。
自分の意志と行動が上手く噛み合わないと「焼きが回った」状態になるのです。
前項で述べた「好むと好まざるとに関わらず身の回りは変化するもの」というのは、他者の変化の集合体なのですよ。
世の中には「変化」が好きな人が多いので、自分が何もしなくても身の回りは変化し続けるものなのです。
その中には当然、自分が好まない変化も含まれていることもあります。
それを避けて「自分が好む変化」に身を置くためには結局、自分自身が変わるに必要があるのですね。
そうすると前述の「行動すれば、何かしらの『壁』に出くわす」ことになるのです。
だけれども、その「壁」を認識して、どれに挑んでどれを回避するかは、ちゃんと自分で選びましょう、と。
それですべてが上手くいくわけではありませんが、結果たどり着いた今の状態は、自分の選択によるものだということだけは、ちゃんと認識しておこうと考えているのです。
人が自分に求める変化って、仕事に限ったことではありません。
当たり前ですが、こうして無職になって長期休暇中である僕にも越えるべき壁(=課題)はやってくるのです。
むしろ、無職になって仕事ではないところに足場を作ろうと行動しているので「壁」が見えやすくなっているような気もします。
例を挙げれば「山口県萩市への移住」だし「生産的な趣味として構築する今後の職業」だったりです。
でも「この壁越えたら、人生ちょっと変わりそう。それ楽しそう」と感じているので、越えてみようと思っているのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。