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理由付けをやめよう。動こう

2019.12.14

こんにちは、萩ドットライフ()です。

行動に移るときには、いったん理由付けをやめてみることが必要ですよね。自分が書いてきたブログを振り返ってみると、ずっと「やりたいこと」の理由を書き続けているのですよ。「自分の思考と行動を記録する」が目的なので、それで構わないのですけどね。

やめたっ! 理由なんか考えても意味ない

僕はずっとフリーランスのデザイナーという、世間的にはなんとなく自由なイメージを持たれているっぽい職業でメシを食ってきたのです。

それでも「セミリタイアするよ」「いったん無職になって休むよ」「田舎に移住するよ」などと言うと「なんで?」「もったいなくない?」「これからどうすんの?」などという疑問の言葉と向き合わなければならないのですよ。

こうして考え続けていることをブログに記録していますので、回答するための言葉はそれなりに作っています。

もちろんそれは、他人からの質問に答えるためではなくて、自問自答しながら見つけ出してきた言葉なので、他人に伝わるかどうかについては知ったこっちゃありません。

「ふむふむ、なるほど」でも「さっぱりわからん」でも、どっちの反応があっても、僕はさほど気にしないのです。

自分自身でも上手に言語化できていない、モヤっとした感情が次から次へと現れてきて、以前の感情や思いついた言葉を上書きしていきますしね。
他人に伝えるよりも、自分の中で腹落ちさせるほうが先なのです。

だから、ものすごく考え込むこともあれば、「やめたっ! 理由なんか考えても意味ない」と思うこともあるのです。

理由を考えるのは「前」と「後」

過去を振り返ってみても、

  • バレーボールの強い大学に進学したい
  • 小さい会社に就職したい
  • デザイナーを自分の職としたい
  • フリーランスになりたい
  • グラフィックからwebに軸足を移したい

などなどの、人生の転機は幾度かありました。

それぞれに共通して「なぜそういう行動をするのか? 理由は?」を考え続けていたのは、実際に行動する「前」と「後」だったように思います。

実際に行動している最中には「理由」なんて眼中になくなってしまうのですよ。

行動する「前」に、あれやこれやと考えるのは踏ん切りを付けるためですね。
とにかく決断するための材料を自分の中で探し回るのです。

もちろん、自分の外にも行動するための理由を見つけるために、人の話を聞いたり本を読んだりもしますよね。

行動してしまった「後」は、自分の行動が間違ってなかったことを裏付けるためのものを探し回ります。

何かを始めたからといって、すぐに成果を得られたり、楽しさを感じられるわけではないので、しばらくの間は「オレ、間違ってなかったよな」と悶々とし続ける期間があるのですよ。

始めちゃったことは仕方ないので、求めていた結果にたどり着くまで粘っこく継続するしか出口はないんですけどね…。

これまでの人生の転機に共通して、実際に行動する直前には「もういい、理由考えるのやめた。とりあえずやってみる」っていうフェーズが必ずあったのです。

事前に考える「理由」が行動を阻む

あとから考えると「さほど理由なんて重要じゃなかったな、もっとサクッと始めとけば良かった」と思うことばかりなのですよ。

何度やっても治らないクセのようなもので「これやりたい」と思っても、どうしても自分の周囲を「やる理由」で固めようとしちゃうんですよね。

結果、それが行動の開始を遅らせてしまうのです。

「動きたい。そのための決断をしよう」と、あれやこれやの理由を自分の周りに積み上げるほど、逆に動きが止まってしまうし、ときには足が竦(すく)んでしまうことは往々にして起こり得ることです。

結果、行動に至らなくて「心の熾火」となって今もくすぶっているものも、たくさんあるのです。
(参考:新しい感情

考えれば考えるほど「自分には過ぎたことなんじゃないか?」「いっときの気の迷いなんじゃないか?」みたいな感情に飲み込まれてしまうのですよ。

そして、当初思いついていた「これやりたい」からどんどん離れていって、思考が重たく、そしてややこしくなっていくのです。

「やりたいからやる」に立ち戻る

「ヨシ、理由付けやめる。動こう」というタイミングを自分で作らないと何も始まりませんよね。

陸上競技で言うと、号砲に合わせて複数の競技者が動き出すレース競技ではなく、跳躍や投擲のような自分の呼吸で試技を始める競技に似ているかもしれません。

自分が納得するまで考え続けたり、呼吸が完全に整うのを待っていると、いつまで経っても何も起こらないのですよ。

何か行動を起こす前に「あ〜でもないこ〜でもない」と考え込むのは性質だから仕方がない、でもどこかしらで最初の「やりたいからやるんだよ。これが理由だ」に立ち戻るポイントを作る必要があるのです。

僕は今、東京と山口県萩市の二拠点生活を終えて、萩に完全移住しようとしています。
先日、空き家バンクで紹介されている古民家(というか築古中古住宅)を内覧したことを機に「移住の理由付けをする必要ないな」という考え方に変わりました。
(参考:萩市の古民家を内覧してきた

「完全移住しようとしています」ではなくて「完全移住します」になっています。

とはいえ、家探しやら自動車免許取得などの準備は続くのですが「移住します」については、もう決断が済みました。
家探しについては、再度いくつかの物件を内覧する機会を設けるつもりですし、自動車免許については東京に戻ったらすぐに自動車学校に入校しようと思います。
(なぜ僕が自動車運転免許をもっていないのか? については「50代にして自動車免許を取るつもりです」をご参考に)

決めたからといって上手くいくとは限りませんが、決めた以上はしつこく行動して、後々「あのときの判断は正しかったな」と思えるようにするだけなのです。

思考が堂々巡りを始めちゃったら、最初の「やりたいからやる」に立ち戻る。これ、基本ですよね。

このブログについては当然、今後も継続していきます。
なのでブログネタとして、あれやこれやの「理由」っぽいことを書き続けることになるとは思います。
当然「移住」や「田舎暮らし」に関することも、理屈っぽく文章にし続けるのです。

何につけても理由付け(=思考)を完全にやめるというワケではないのですよ。
行動を起こすときには、何も考えない真空状態みたいな瞬間が訪れるよね、というお話です。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。