「世の中甘くない」という言葉を50代半ばの今、検証してみる
2020.01.19
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。これまで何度「世の中甘くない」って言葉を聞いたことでしょう。50年以上生きてきた結果「うん。確かに世の中甘くないね」という気になっています。けれど若い頃に言われて感じた「なんだよウッセ―な」とちょっと違った受け止め方になっているのです。
「世の中、そんなに甘くないよ」って言いたがる人に出くわすことってありますよね。
子供時代には、親だったり、知り合いの大人だったり、学校の先生だったり。
大人になっても、上司だったり、業界や会社の先輩だったり。
50代半ばのオッサンになった僕でさえ、同年代のオッサン・オバサンからこの言葉を聞くこと、皆無ではないのです。
まあ「平凡な決まり文句だな」と思いますが、いままで何度この言葉を聞いてきたんでしょうね? そしてこれから何度聞かされることになるのでしょう?
なんとなくの印象ですが「言われるヤツ」と「言うヤツ」って、若い頃から別れてませんかね? ハゲるヤツとフサフサのヤツみたいな感じで、若い頃から「なりそうな感じ、するな」っていう予兆があったりするのです。
僕の思い込みかつ、n=二桁程度なので、信頼性はありませんけどね。
僕は子供時代からオッサンになった今まで、一貫して「言われる側」ですね。
他人に「世の中に甘くないよ」という言葉を告げるタイミングに巡り合ったことが一度もないのです。
みんな「言うぞ、次のチャンスで言ってやるぞ」みたいな感じで待ってたりするんでしょうかね?
そこそこ本当だけど、いちいち人に言うことでもない
他人に向けて「世の中に甘くない」って言ったことはないけれども「うん、そんなに甘くないよね」とは思っているのですよ。
何かを為そうとすると、それなりに学習やら努力やら、それらを継続することを求められるし、何年も取り組んだ結果、得られるものが「自分にこれは向いていない」という判断だけ、ってこともありますからね。
ていうか、むしろそっちのほうが多いんじゃないでしょうかね。
でも、それを繰り返さないと何も始まりませんから、他人に「甘いか、甘くないか」を告げることにあまり意味はないように思うのです。
そもそも、失敗と成功って対立概念ではないと思うのですよ。
100のトライアルをやってみて、その中の10が芽を出して、その中の1が樹に育ったら「当たり」みたいなものだと思っているのです。
では芽の出なかった90のトライアルは失敗だったか? というと、1が樹に育ったことがきっかけで「こりゃダメだ」と放置していたものがムクムクと育ち始めることもよくある話だったりします。
失敗と成功は、混ざってたり連続してたりするものなのですよね。
「世の中甘くない」のですが、その環境の中で、本人がトライ・アンド・エラーを繰り返しながら成長していないと、その先でやってくる「運」と上手くマッチングできなかったりするんですよ。
それに、何かを「やるぞ!」って思ってる人は「世の中甘くないよ」って言われても、「ウルセーバカ」と思いながら始めちゃうでしょうし、「誰々さんに甘くないって言われた」って理由で行動を止めちゃう人と話を続けても、あまり意味ないでしょ。
だいぶ前に『フリーランスになりたいと言ってくる人には「やめとけ」と答えます』という記事を投稿したことがありますが、やりたい人は誰になんと言われようとやっちゃうものなのです。世の中の甘い/辛いなんて、どっちでもいいのです。
ほとんどの人は「よくわからないんだよね」の代わりに言ってる?
前述のように、僕も「世の中甘くない」とは思っているのですよ。それは常に自覚しています。
だから、それなりに気合を入れたり、覚悟を決めたりしてから物事に取り組むので、ちょっとした初動の遅れを後悔することもあるのです。
みんな、自分自身ではどう考えてるんでしょうね?
往々にして、「世の中甘くない」って言う側は年長だったり、立場が上の人。言われる側は年少だったり立場が下だったりしますから「言う側」の方が経験・知識に勝ってるという前提があるんでしょうね。
だから何かしら正解っぽいことを言いたいし、言わなきゃいけない圧力を感じてるんじゃないでしょうかね?
とはいえ、年長だから教える側だからといって、何でもかんでも知ってるワケじゃありません。むしろ、知らないことが多いに決まってるのです。
でも「知らない」と答えるのもプライドが満たされないし、せっかく自分と会話をしてくれている年少者に申し訳ない気持ちもあったりして「よくわからない」の変わりの言葉を探すのだと思うのです。
それが「世の中甘くないよ」なんじゃないでしょうかね。
自分が「よくわからない」がゆえに「やるべきだ/やめとけ」という返答を避け、ちょっとだけ角度を変えた答え方なのだと思います。
- 「世の中甘くないよ(でも、頑張ればなんとかなる。やってみろ、応援してるよ)」
- 「世の中甘くないよ(だからやめとけ。失敗すると悲惨だよ)」
どっちにでも解釈できますからね。
あとになって「あのとき背中を押してヨカッタ」も「だからあのとき止めたのに」も、どちらも有効なのです。
そういう場合「『甘くない』と言わない派」の僕がやってることは「体育学部卒だけど、デザイナーになってみたよ」とか「フリーランスになった当初は仕事なくて死ぬかと思ったよ」みたいな「甘くない」けどどうにかなったよ、という実体験を話すことにしています。
これから何かをやろうとしている人と同席している座を「そんなに簡単に上手くいくわけないよね」みたいな空気にしたくないのです。
「甘い」かどうかは、その人の感じ方次第
かといって「オレができたんだからイージーだよ」という流れになるのもイヤなのです。
個性だったり社会環境だったり、属人性やタイミングなどが組み合わさった「運」がふんだんに詰まってますからね。
ものすごくありきたりな言い方をすると「その人次第」ってことですからね。
自分のことは自分しか分からないように、他人のことならば、その人しかわからないのです。
僕が「甘くない」と思ってることを、ある人は「甘い」と感じるかもしれないし、当然その逆もあり得ます。
そうなると、世の中に「甘い」も「辛い」もないのですよ。
前述のように、僕は、何かを為そうとすると、それなりに学習やら努力やら、それらを継続することを求められる。だから「甘くない」と思っていますが、人によっては「学習と努力で突破できる世界なのであれば、それって甘いよね」と考えているかもしれないのです。
一方で「甘い/辛い」は、相手のあることだったりもします。
たとえば、僕がフリーのデザイナーになったばかりの頃、いろんな制作会社や広告代理店を「デザインの仕事をやらせてください」と回っていました。
上手く仕事につながったケースもあれば、「あなたにはチカラが足りません」と判断されたケースもあります。
そこで判断をしてくれた人にしてみれば、僕に「世の中甘くないことを教えてやろう」なんて気はサラサラなく、単純にその人のビジネスにとって僕が必要か、そうでないかで判断してくれただけなのです。
それをこちらが勝手に「甘いな/甘くないな」と受け取ってるだけなのですね。
「世の中甘くない」の半分は、自分の側にあるのです。
ハードル下げて「甘く」してもつまんないですよね
言い換えれば、自分の目標値を上げれば「世の中甘くない」ということになりますし、反対に目標値を下げればイージー(=甘い)になるのです。
さて、冒頭で述べた「世の中、そんなに甘くないよ」って言いたがる人のことを思い出してみましょうか。
その人が、しっかりと「世の中の甘さ」を思考した上で「甘くないよ」と言っているのか? ただ偉ぶりたくてそう言っているのかは置いておきましょう。
僕はそんな人たちに対してずっと、「なんだウルセーな、クソが」って思ってました。
でも年を経るにつれて、その人たちが言っていた「甘くない世の中」を自分のイメージの中に作ったほうが、満足度が高い人生を送れるんじゃない? と思うようになってきているのです。
ハードルを下げてイージーゲームばかりやってると「世の中甘い」と感じるかもしれませんが、それだとつまんない気がするのですよ。
確かに、自分がチャレンジしてこなかった、やってみたけど壁に阻まれた。失敗の原因を分析しなかったし、体勢を作り直して再チャレンジもしなかった。
その事実を覆い隠すために「世の中甘くない」という言葉を使っていること、多々あります。
思い通りにならない経験をする度に「世の中甘くないな」と考えますし、ひとりポツっと口に出したりもします。
でも、延々とそんなことばかりを考えてイライラしても仕方ありませんよね。
「世の中甘くない。だから楽しい」くらいに思ってるのが、ちょうどいい塩梅なんじゃないかと50代半ばの今、思っているのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。