脇道にそれることを楽しみながら、生きていこう
2020.01.25
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。必ずしも自分で思い描いた理想通りじゃないけど「なんだかこっちのほうが楽しそうだな」って感じることが多いのですよ。この、脇道にそれる感じが嫌いではないのです。なかなか言葉にしにくい感覚なのですが、なんとなくそう感じているのです。
ボンヤリと気づいていた感覚
「たぶんこれ、ちょっとだけ間違ってるな」とか「少し前に思い描いていた理想と違うものを手に取ろうとしてるな」みたいな感覚になることが多いのです。
思い起こしてみれば、子供のころからずっとそうだったかもしれません。
「あのときのアレは妥協だったな」と後悔していることもあれば「あの選択があったから、今これに巡り合ってるんだ」と感謝していることもありますから、一概に良し悪しを語ることはできません。
ただ、「あれ? これって理想と違うじゃん。ちょっと変なものを選ぼうとしてる」と気付きながら、本当に変なものを選んでしまう自分、それほど嫌いじゃありませんね。
こうして毎朝ブログを書いてると「こういうのってオレだけの感覚? それとも誰にでもあるの? そういや、他の人に訊いてみたことないな」って感覚に巡り合うのですよ。
たぶんアタマの中の、これまで50年以上使って来なかった部分を使い始めてるんでしょうね。
この、ちょっと間違ってることをわかっていながら、そっちに進んじゃう感覚とか、ときどき「理想」というラベルをまとって降りてくるものって何? みたいな感覚だったり、これまでボンヤリと気づいてたけど、言葉にしてこなかった感覚に出会っているのです。
無職になって暇になったからかもしれないし、50代半ばを過ぎてオッサンになったからかもしれません。
理由はどうあれ、そうなってしまうものは仕方ないのです。
そして、こうやってどうにかこうにか、言葉にしてみようと試みています。
また月日が経てば、同じことを違う言葉で記事化するかもしれません。
「理想」ってなんなんでしょうね
過去を遡ってみても、僕自身が「さて、これからやろうとしていることの理想形とは」なんて考え始めたことなど一度もないのですよ。
そもそも「理想」って、自分自身との対話だったり、二人での会話だったり、複数人のミーティングだったりの途中で「それが理想なんだろうけど、現実はね」と、否定されるために登場してくるものですよね。
「いや、それが理想だとわかってるのならば、そうなる努力をすべきだ」って思うときもあれば、「そうね、何もかもが理想通りに行くわけないもんね」と流しながらも、ずっとアタマのどこかに引っかかって以降の思考に延々と影響を及ぼし続けたりもするんですよね。
いよいよ決断のときに「あれ? 理想じゃない方向へ進もうとしてるぞ…」と、最後の最後まで居続けるものなのですよ。
僕たちみんな、働き方だったり、仕事の進捗だったり、恋愛だったり、暮らし方だったり、話し方、考え方にまで、なんの疑問を持たずに「そうね。それが理想だよね」みたいな考え方を受け入れてますよね。
何かを決断した後にも、しばらくは居続けるものなんでしょうね。
フェーズが変わってもウダウダと「理想通りってワケにはいかないけどさ」とか「これが理想だ、ってピンと来たんだよ」みたいなことを言い続けてますもんね。
でも、時間が経つに連れ、いつの間にか居なくなるものなんですよ。
助走してるときに現れて、離陸してちょっとくらいまで残ってて、飛行中はさっぱり忘れてるけど、着陸してしばらく経つと、思い出としてまた登場してくる感じでしょうかね。
一応、「理想」についてググってみると、
理想:
理想(りそう)とは、考えられるうちで最高の状態のこと。プラトンによる哲学思想「イデア」を明治時代に直訳した用語。
また、ある条件を定義し、それにあてはまったものを指して「理想」と呼ぶ場合もある。現実の対義語 (理想⇔現実) であるが、その現実を作る上で、目標となるものである。
実現可能な相対的な理想と、到達不可能な理想に分けられる。後者は、神や最高善などと呼ばれる。例:理想的な人、理想気体の状態方程式。
出展:https://ja.wikipedia.org/wiki/理想(2020年01月25日現在)
ということのようです…。
「考えられるうちで最高の状態のこと」ってことですから、時間が経って状況が変わればアップデートされるものなんでしょうね。
助走時に思ってた「理想」と、着陸後の思い出の中に混ざってる「理想」。ちょっと違うヤツみたいな気がするのはそのせいだと思います。
脇道にそれると、楽しい
これまでの人生の中で、最初から最後まで「完全に理想通りにものごとが進んだ」ってこと、一度もありません。
結果論的に「オレ、こうなるように仕込んでたんだもん」って嘘を付くことはありますけどね。
本当に自分の頭の中にある「理想」に沿ってものごとが進んでると、どこかしらで「これ甘いんじゃない?
つまらない安全策をとってるんじゃないか」という感情が湧いてきて、どうしても脇道を探してしまうものなのです。
とはいえ、仕事なり、人付き合いなりをする上で、僕がいつも脇道にそれている人ならば、それはそれで信頼を失うだろうし、かといって「安全策ばかりとる人」だと思われるのもちょっとイヤだったりするのです。
ときどき、ちょっとだけ脇道にそれることで、周りから面白がってもらいたいし、自分もそれで楽しめれば一石二鳥だよね、といったところでしょうかね。
脇道にそれるのはいいのですが、その行為が今のレベルを超えるための味付けになることが必須なのだろうと思っています。
あくまでも、良い方向に期待を裏切るとか、「そうね。これアリだね」というところに着地させなければならないのです。
独りよがりの演出とか、不要なサプライズなんて、誰にも求められていないのですから。
冒頭で
「あれ? これって理想と違うじゃん。ちょっと変なものを選ぼうとしてる」と気付きながら、本当に変なものを選んでしまう自分、それほど嫌いじゃありませんね。
と書きました。
これ決して、奇をてらった行動を取ろうとか、間違った行動そのものに意味付けをしようとしているのではありません。
これ。仕事、プライベート、コミュニティ活動に関わらず、生活全般に言えることですよね。
「要らんことすんな」が基本だろうと思っています。
8・9割がたはフツーのことをその場面で求められるよりも、ちょい高いくらいのレベルで進めるのですよ。
残った1・2割程度の部分で「ん、そっちじゃないんじゃない?」というものを含ませたいのです。
ある人は「欠陥」だと思うかもしれませんし、ある人は「面白み」だと思ってくれるかもしれません。
その「ある人」には他人のみならず、未来の自分も含まれています。
だから「あれは妥協だった」と後悔することもあれば、「あのときの間違いは1周回って、アリ」という結論に至ることもあるのです。
脇道にそれる行為は、意図的だったり、無意識だったりします。
自分でもコントロールできてるのだか、できていないのだか、よく分かっていないのです。
でも、自分で組み立てた「理想」に沿って波風立てずに平坦な人生を歩む人よりも「ときどきちょっとだけ脇道にそれる人」で生きていったほうが、僕にとっては楽しそうな気がするのです。
しっかりとしたロジックを組み立てることはできませんが、なんとなくそう感じているのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。