時間的余裕がもたらすもの ― 心のバッファを作る
2020.02.25
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。いつの間にか想像通りに行かないことに、面白さを感じることができるようになっていることに気付いています。そうなるためには、僕の心の中にバッファ(=余裕)があることが必要で、それは時間的余裕がもたらしてくれるものだと思っているのです。
暇で退屈な毎日を過ごしています。
長年生業としてきたデザイナー稼業から足を洗い、無職になって長期休暇中だからです。
定期的にこのブログを訪れてくれる方にしてみれば「何度、無職無職言えば気が済むんだ? そんなこと知ってるよ」と思われることでしょうが、このブログ、来訪者の4分の3がOrganic Searchすなわち検索エンジンからの来訪者なのですよ。
圧倒的にこのページだけを読んで離脱される方が多いので、毎度々々必要な背景は文中で説明するようにしているのです。
心にバッファ(=余裕)があると生活が変わります
「バッファ」という言葉があります。
もともとはコンピュータ用語で、一時的に情報を保存しておく領域のことを指します。
転じて、ビジネス用語として「余力」や「緩衝」という意味で使われるようにもなっています。
時間的、物理的な余裕であったり、人間関係をサポートする役割のことを指して「バッファ」と余分ですね。
冒頭で触れたように、僕はいま暇で退屈な日々を過ごしていますので、時間的に余裕があるのです。
それが、心にも余裕をもたらしてくれているのですね。
つまり、あらゆることに対して「バッファがあるから大丈夫」な状態になっているのです。
これがなかなか快適なのですよ。
どこの記事に書いたのか忘れてしまいましたが、バッファがあると他人からの誘いに対して、楽しそうだと感じればすぐに応じることができるし、つまらなそうだと感じれば躊躇なく拒否することができるようになっています。
わかりにくいかも知れませんが、余裕のないときには時間を判断基準にしていて「時間があるから応じる」「時間がないから断る」ようなことをしていたのです。
例えば「つまんない飲み会に出席するよりは、家でYouTube観てたほうが、はるかに有意義だよね。時間はあるんだから、そのうち楽しそうな誘いが来るでしょ。それに応じよう」みたいな考え方をするようになっています。
(参考:飲み会を「つまらない」と思うようになった理由)
上手くハマらないものは、面白い
想像通りに行かないことを「うん。面白い」と感じることができるようになっています。
フリーのデザイナー時代には「そんな打ち合わせ、いる?」「わざわざ対面でやる必要、ある?」みたいに思っていたのですが、面白そうな事象を解説してくれそうな人に呼ばれたら「うん。行く行く」と、そそくさと出かけるようになっています。
「そっか、かつてのオレ、定型業務ばかりになってたんだな」「定型業務を楽だと感じてたんだ」と改めて気づいたりもしています。
そうならないように、いろいろと工夫してたはずなんですけどね。
ま、いったん無職になろうと決心した理由が「焼きが回って来ちまったな」と感じたからなので、いろいろと辻褄は合ってるのです。
非定形。つまり事前の想定にうまくハマらない事柄を「面白い」と感じるためには、心にバッファが必要なのですよ。
締切やら納期やらの時間的制約がある場合には当然、時間のバッファが必要です。
想定していた問題から解決に至る筋道の途中で、予期せぬイベントが起こった場合、対応できるできないは能力の問題なのでしょうが、面白い面白くないは、完全に心のバッファ(=余裕)の問題ですよね。
対応するチカラがあっても「面白い」と感じることができなければ、それはやはり焼きが回ってる状態なのです。
それが、無職になって暇で退屈な日々を過ごすことで心のバッファをうまく使えるようになりはじめた気がします。
これまでとは少し違うことに関心を持っているし、生活する環境を変えようとしている最中だということも影響しているかもしれません。
僕は今、東京から山口県萩市に移住する計画を進めているのです。
前述の「想定していなかったことを面白い」と感じたのも、萩の古民家を購入する過程で起こっていることが大部分を占めています。
ただ、まだ売買契約にも至っていないので、詳細については伏せておきます。
それもこれも時間的余裕によってもたらされるのです
対人関係に関しても似たようなことを感じますね。
予測に反する反応をしてくる人に対して、イラッとするのか? 「面白い」と感じるのか? 先方よりもむしろ、こちら側にバッファがある状態なのか、そうではないのかに因ることも多そうです。
それでも、関心を持てない人については、果てしなく興味が湧かないんですけどね…。
こういうのって、周期的なものかも知れませんね。
僕、駆け出しのころには想定通りに問題解決にたどり着けるような案件が好きでした。
安定感のある仕事をハイスピードで量産することに快感を感じていたのですよ。その忙しい感じも、心地よさの要因でした。
それがいつしか、一本調子に感じられるようになり、だんだんと自分の中で不具合を起こすようになりはじめたのですよ。
「こんなんだったら、オレがやる必要ないじゃん」って感覚ですよね。
「オレはもっと上のレベルを目指せる」という欲求が体中から染み出していたころですね。
もちろん、あらゆる情報を整理して、課題の構築、仮設の組み立てと検証の反復、着地点のすり合わせをないがしろにしていたわけではないし、奇抜な処理を望んでいたわけでもないのですが、なんとなく想定外のことが起こって、ザワっとする感じを求めていたのです。
そして月日が経ち、気がついたら再び定型業務の安定感を好むようになっていた、と。
デザイナーを含むクリエーター系職業人って、自分の心の隙間を作業で埋めようとする人が多い印象があるんですが、いかがでしょう? もしかして「そんなのお前だけだよ」なのかもしれませんが、とりあえず僕はそうなのです。
上手くいってるときはいいのですが、噛み合わせが狂ってくるとなかなか修復が困難になりがちですね。
事実、僕は40代後半でパニック障害の発作を起こしましたしね…。「休み下手」っていう要因もありましたけど。
結局、無職になって暇で退屈なフェーズを設け、関心の向けどころを変えてみたり、居住する環境を変えようとしていることは、僕の人生にとって良いことなのでしょうね。
とりあえず今のところ「心のバッファって、自分で意識的に作り出せるものなのだなあ」と感じることができただけでも、収穫です。
今のところ、時間的余裕を確保したことが一番影響が大だと感じています。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。