努力を継続するために、努力すべきこと
2020.02.27
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。目標を達成するために努力は欠かせないという考え方に反対するつもりはありませんが、無駄な努力に縛られるのはよくないと思っています。必要な努力を継続することを阻害しますからね。ときどきは「引き際」を見極めるメンテナンスが必要なのです。
努力が目的化してません?
「無駄な努力をしないための努力」というものがあるのだと思います。
僕たちは幼少期からずっと、努力し続けることを奨励されてきました。
当然僕も、なりたいものがあったり、やりたいことがあると「さあ、それに向かって努力するぞ」と心に誓ってみたりするクセ(=習慣)が付いています。
他人を評するときも「あの人、ああ見えてすごく努力してるんだよ」みたいなことを言ったりしますよね。
たぶん、努力の話をするのが簡単だし、好きなのですよ。
センスがどうこうとか、才能のあるなしみたいなことを語り始めると、なかなか上手に言葉にできなかったり、会話が意図しない深みハマったりしますからね…。
反面「努力」という言葉に思考と行動を絡め取られてしまうこともありますよね。
何かやろうとして挫折したとき、上手くいかなかったとき、失敗したときに「自分の努力が足りなかったのか…」とか「あんなにも努力したのにダメだったのか…」などなど。
または「結果としては負けだけれども、精一杯の努力はした。悔いはない」みたいな、成果を上げることができなかった場面での弁明に用いることだってありますよ。
あまりオモテ立って口にすることは憚られるのですが「努力なんて、どうだっていじゃん」とも思うこともあるのです。
いや。努力は大切なんです、要るんです。
自分にやりたいことや、どのような人生を歩みたいのか目標があって、その工程を一つひとつ進めていくためには欠かせないものなのです。
でも「努力が目的化しとりゃせんか?」「その努力、要る?」という場面に出くわすことも少なからずあるのです。当然、自分に対してもです。
引くに引けなくなっちゃうんですよね
以前投稿した「続けること。やめること」で、「埋没費用(サンクコスト)」という言葉について触れました。
「このまま続けてても成果出ないな」と感づいているのに、これまでに投じたコスト(時間とか労力とか、もちろんお金も)がもったいなくて、なかなかやめる決断ができなくなっちゃうんですよね。
アタマじゃわかっていても「サンクコストに縛られずに物事を進めていく」って困難ですよ。
その最中にいるときは「縛られてる」なんて感じてないんですから。
あとになって「そういえば、あのとき…」って思い出しながら、ようやく理解できるんですよね。
これ「努力」についても、まったく同じことが言えます。
前項で述べた通り、努力は大切なのですよ。
努力することに対して、誰も否定なんかできないのです。ある意味「絶対の正義」なんですよね。
だから、やっかいなのです。
いくら努力を続けても、さっぱり手応えがなかったり、それなりの成果は得られたけれども、いまいちしっくり来なかったりしたときに「もうこれ以上続けても仕方ないから、打ち切ろう」という判断がしにくいのです。
どうしても「怠けようとしてる」「甘えが出てる」みたいな考え方をしてしまうものなのです。
「ムダなんじゃない。足りないんだ」という気持ちになるんですよね。
インターネット上によく出回っている、あと1歩のところでお宝に辿り着こうとしているのに、穴を掘るのをやめて引き返している人のイラストを見たことありませんか?
このイラストをここに掲載しようと思ったのですが、いろいろググり回っても権利者にたどり着けませんでした…。
なので、ここで流用することは避けます。
関心のある方は、
成功する人と失敗する人との一番大きな違い | 日本ワイヤークラフトアカデミーをご参照ください。
これを思い出して、どうしても「やめる」という決断ができなくなっちゃうんですよね。
つまり、努力がサンクコストになってしまってるのです。
マイルドな努力が、僕には向いてるかな
僕は正直「努力の引き際」を明確に定義することはできていません。
50代半ばになっても、こんな感じなので、20代・30代のころのことを思い出しても「ああすればよかった、こうすればムダな努力をしなくて済んだのに」なんて反省すらできていないのです。
まだまだ、モヤモヤし続けている最中です。
でも、なんとなく思っているのが「無駄な努力をしないための努力」ってものがあるんだろうなということです。
あまり上手な言葉にできないのですが、ガチガチの義務感だったり、苦行の様相を呈している努力をしていると、もともとの目標(=ゴール設定)を見失いがちなのですよ。
努力そのものが目的化してしまいますからね。
それって無駄な努力。本来すべき努力の邪魔をしてしまうものだと思うのです。
自分が継続しているもの、習慣化していることが「努力」であると認識できないくらいのものがしっくり来るのです。
傍からみれば「努力」に見えるとしても、自分自身は「この先なりたい自分への準備行動」だと思ってるくらいがちょうどいい塩梅だと感じているのです。
たぶん、この辺りに「引き際」がありそうですね。
努力が目的化してしまったら「こりゃダメだ、やめよう」と思っていいんじゃないでしょうかね。
前述の通り、明確に定義化できてるワケではなく、なんとなく感じてる程度ですけどね。
でも、この「引き際を見極める努力」こそが「努力を継続するための努力」なのだろうと思うのです。
人のキャパシティなんて決まってるのですから、そうそう努力の量なんて増やせるもんじゃないのですよ。
以前「断捨離を実行することにします」なんて記事を投稿したこともありますが、努力にも断捨離が必要な場面があるように思います。
「この努力は、もう要らないな」「これはまだアリかな」みたいな棚卸しをすべきなのですよね。
必ずしも、努力の先に成果が約束されるワケではありません。
でも成果(=ゴール)がイメージできなくなった努力は「これ要らない」と判断して、捨てて、他の成果へのイメージをしやすい努力に注力することが、本来必要な努力を継続するための努力なのだろうと思うのです。
「努力」の出現回数が多くて、ややこしくてスミマセン。
じゃあ結局「努力って大切? それともそうでもない?」と、よくわからない状況に陥るのですが、僕が思うのは「すごく大切。でもメンテナンスフリーじゃない」「できれば努力と認識できないくらいの習慣化がよき」だということです。
もちろん「苦行によって負荷をかけることで、精神的に盛り上がる。楽しい」という努力を否定しません。僕の中にもそんな部分があることを自覚していますしね。
でも、加齢からくる衰えもあるし「そういえば、あのころ努力してたもんね」と振り返って懐かしむくらいのマイルドな努力が、これからの人生にはフィットするように思うのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。