教えて? じゃなくて、答え合わせを
2020.03.07
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。何でもかんでもってわけじゃなく、限られた場面でのことですけど。何の前提もなく、知識量も考え方もわからないままに「教えて?」って訊かれても対応に困りますよね。せめて下調べをして自らの考えを持った上で、答え合わせとして質問して欲しいのです。
「こういう困った人がいました。イヤですね」という話を書こうと思いついています。
特定の誰かを思い浮かべながら話を進めるのですけれど、それでもどこかしらで「誰のことを言ってるのか分からないように誤魔化さなくちゃな」って配慮をしてしまうものなんですよね。
このブログ、匿名で書いてるんですけれど、実際の僕を知ってる人が読めばすぐに分かっちゃうんですよ。
すでに何人かにはバレてることが確認できているのです…。
体験したことをそのまんま書いてしまうと、偶然が偶然を呼んで「この萩ドットライフって○○だろ。これ、自分のことじゃん」なんてことになってもメンド臭いので、ほんのちょっと設定を変えたり、複数人を混ぜて単体っぽく見せたり、ときにはでっち上げたエピソードを混ぜたりすることもあります。
一番多いのは、一般論を装うことでしょうかね。
あまり、悪口ブログみたいになるのもイヤですしね。
だいたい、数週間前くらいに「あ、これをブログテーマにしよ」と思ってたことを少し寝かしてから筆を取るのですが、こうやって数行書いたときに「待てよ、この話まえにも書いたぞ」と思い出したりするものなのですよ。
今回は、すぐに「教えてくれ」って言うやつっていかがなものか? ということを書こうと思うのですが、昔の記事を検索してみると、かなり前に「「教えてくれ」って言いたがる人に近づきたくない」なんて記事を書いてますね…。
他にも、
あたりも、似たような出来事から着想した記事っぽいですね。
僕は定期的にこういうことを考えるクセがあるようです。
もう「前にも書いたし、同じテーマの記事書くことはやめよう」なんてことは考えていません。
「数ヶ月前の自分と、今の自分。ちょっとは変わってるんだから、書くことも変わるだろ」くらいのつもりで気にせずに書いていこうと思っています。
以前の記事と同じような仕上がりになるのか? それともまったく別物になるのか? は分かりませんが、とりあえず書き切ってみることにします。
まず、自分で考えてみてよ
「まず自分で考えてみてから訊いてくれる?」って指摘したくなるようなケースってありますよね。
前提としては、仕事の話です。
「この辺で、最寄りのコンビニってどこです?」という質問に対して「スマホご覧になったらいかがです?」みたいな返しをしようって話じゃありません。
社会人経験の少ない、お若い方々のことでもありません。
経営者だったり、管理職だったりする、社会人経験豊富なはずの方々にも多いのですよ。
みんな職業人生の間で何度も「ちゃんと考えろよ」みたいな小言を言われてきたはずですよね。
そのたびに「(考えてるよ、ウッセ―な)」と反発もしてきたはずなのですよ。
その上で、あとになって「そっか、あのときの自分は考えが足りなかったのか」「まったくピントの外れたことを考えてたんだな」みたいなことを理解して少しずつ成長したから、今でもどうにか業界に置いてもらってるはずなのです。
なのになぜ、オッサン・オバサンになった今、手ぶらで「教えてよ」と訊ねてくるのか…。
その人が門外漢だからこそ、僕の専門分野について質問してくることに対しては、何も抵抗はないのです。
むしろ、質問相手に僕を選んでくれたことが嬉しかったりもするのです。
僕は長らくWebデザイナーをしていましたから、なんとなくその周辺のことについて訊ねられることが多いですね。
中には、僕のことを「パソコンで仕事をしてる人」と認識していて、パワーポイントの使い方とか訊いてくる人もいますが、そいういうときには「御社の新人さんよりもスキルないっすよ」と答えて突き放しています。
まず「ググればわかること訊いてくるの、やめてよ」と思います。
その質問に対して、僕なりの答えを持ってたとしても「〇〇〇とか△△△みたいなワードでググったら、それっぽい情報出てこない?」みたいな返し方をしますね。
人によっては「素っ気ない態度を取られた」と感じる人もいるかもしれませんが、一方的に僕の知識や考え方を伝えるだけだと、相談相手じゃなくて、便利屋みたいになってしまってキリがないのですよ。
「答え合わせ」の重要性
僕は「答え合わせ」をしたいのです。
だから、自分で考えた「答え」を持っていて欲しいのですよ。
決して「僕がジャッジしてあげる」と大上段に振りかぶっているわけではありません。
たとえ訊ねられた内容が僕の専門分野であってたとしても、必ずしもすべてを正しく解釈しているとは限らないのですから。
僕も質問された内容について考えてみてから「答え」を遡上に乗せるのです。
そこで「答え」と「答え」を並べて照らし合わせるから「答え合わせ」なんですね。
考え方に正誤なんてないのですよ。
「答え合わせ」によって明らかになるのは、考え方のもとになる知識の正誤だったり、前提条件や方向性の認識だったりするのです。
コミュニケーションをそこまで持っていかないと、話が噛み合わないのですよ。
だから、なんとなくで構わないからいろいろ調べたり、考えたりした上で「どう思う?」と訊いてほしいのです。
その上でならば、その人の質問に付き合うことは僕自身のアタマの整理にもなりますから、きちんと自分もアタマを動かして応じますし、答え合わせなんて1度っきりなわけないので、何度でも何度でもフェーズが変わるたびに意見を交わすこともやぶさかではありません。
やり取りの中で、詳しいはずの僕のほうが「え? なにそれ、知らない」ってことも多々ありますからね。
ネット系の分野って、自分の守備範囲を超えるとチンプンカンプンなのですよ。
「ちょっと待って、こっちでも調べてみるから」とか「これに関しては、それなりの専門知識ある人に訊いたほうがいいな」なんてことも多いのです。
自分の専門分野に近ければ近いほど「教えて?」に対してカジュアルに返答するのに戸惑ってしまうんですよね。あなたは、どうですか?
次のフェーズが気になるのです
繰り返しますが、あくまでも仕事で絡んでる人だったり、絡んではいないけど、ちょっとカスってる人からの質問だという前提で書いています。過去形も含めてですね。
だから質問を受けることで、ちょっと関わりができると気になるのですよ。
- 「このあと、この人どういう判断をするんだろう?」
- 「またどっかのフェーズで質問してくるかな?」
- 「いい結果であれ、悪い結果であれ、その先に起こったことを知りたいな」
などなど。「乗りっかかった船」というべきか? 「野次馬根性」というべきか…。
僕の側が、答え合わせをしているような気になっちゃうんですよね。
こういうのって、延々と続くのですよ。
何か考えて「答え」を出して、誰かと「答え合わせ」をして、次のフェーズに移って。
その先のフェーズで、また考えるべきことが見つかる…。
当然、途中で「ダメだこれ、やめよう」という判断を下すこともありますけどね。
いずれにしても「ねえねえ、これ教えて?」で済ませようとすると、消化不良だし、上手くいえないけど、モヤモヤしてスッキリしないのです。
「ただ分からないことを質問したいだけなのに、そんなに構えられちゃうと重たいよ」と感じられる方もおられるでしょうが、であればそれはググれば解決します。
それでも解決できなければ「ググったけれども全然出てこない、なんでだろ?」と質問してくれればいいのです。
そうすると「ググり方の答え合わせ」ができるのですから。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。