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意識的に、頭の中をチューニングしよう

2020.04.17

こんにちは、萩ドットライフ()です。

ひとつのことに頭の中を支配されるって、それが何であれ良くないことだと思っています。ここのところ目につくニュースが新型コロナウイルスに関連することばかりです。「意識的に頭の中をチューニングしないとダメだな」と思っているところなのです。

萩グランドホテルが倒産したようです

僕が小学生のとき、その頃住んでいた家のすぐ近所に、大きなホテルができました。
「萩グランドホテル」というのですが、最上階のレストランが円形に作られていて「あの丸いところがずっと回り続けるらしい」という噂で持ちきりでした。

食事をしたり、お酒を飲みながら、萩の街を360°見渡せるようになっているというのですね。

けれども完成後、その円形のレストランが回ることはありませんでした。

最初っから回る予定などなく、意匠として丸く設計しただけのものを街の人々が「あれは回るぞ」と勝手なことを言い始めただけなのか? それとも、当初は回る仕様だったものを途中で回らないように変更したのか? は、謎です。

その後、誰かに「あの話、真相はどうだったんだろ?」と訊ねてみたこともありません。

萩グランドホテルは、人口5万人足らずの萩市の中でも、ランドマークと呼んで差し支えないような建物でした。
道案内をするときにも「グランドホテルの角を東萩駅の方に曲がって…」みたいな言い方をよくしたものです。

高校の同窓会を含め、ちょっとした催しがあるとそこが会場になっていましたし、市内を徘徊しているとイヤでも目に入る建物なのです。

その「萩グランドホテル」を所有する会社が、破産を申請したようです。
「山口県初の新型コロナ倒産」というヘッドラインも目にしました。

内情に詳しいわけではないので「止むに止まれず、涙を飲みながら」なのか「ここらを区切りに、よき撤退を」なのかはわかりませんが、傍で見ている分には寂しさを感じますよね。
「たいへんなものが近所にできる、この街がすごいことになろうとしている」と、ワクワクしながらひんぱんに工事現場を見に行ってましたから…。

10年前のリーマン・ショックのときと比べて、今回の新型コロナ・ショックのほうが、自分の生活や記憶に強く影響を及ぼしているように感じるのです。

頭の中をチューニングしよう

このブログに何度も書いていますように、僕は無職になって、ひと休みしている最中です。
だから、新型コロナウイルス禍によって、不要不急な外出の自粛を要請されようが、緊急事態宣言が出されようが、生活そのものはさほど変わらないのです。

むしろ、気の乗らない飲み会への参加を求められないし、「ちょっと意見聞きたいんだけど」的な呼び出しもないので、清々しているくらいなのです。

僕の感触では、営業電話も明らかに減ってるのですが、みなさんどうでしょう?
履歴を見てみたら、年明け以降2件でした。

こうして身の回りがより静かになるのは良いことなのですが、なんとなく頭の中がどんどん変わっていっている感じがしています。

前項の「萩グランドホテル」運営会社の倒産のように、新型コロナウイルスによる影響による出来事が、どんどんニュースとして飛び込んできますからね。

2月のはじめくらいまでは、萩市で購入した古民家をどうリノベーションしようか? 自動車の免許取らなきゃ。DIY用の道具、まず最初に何から買おう? みたいな前向きなことばかり考えていたのです。
(参考:他人の趣味と向き合う ― 萩市の古民家を買うことにしました

それがだんだんと「この新型コロナによって、社会が変わっちゃうな。どうなるんだろ」みたいなことばかりを考えています。

証券口座で運用していた金融資産が大幅に目減りをしたり、マンションを売却が止まってたりするので、暗い気持ちになることもありますし、「地方移住してそこを拠点に生活を作り直そうとしてたオレ、間違ってなかったな。やはり脱東京だわ」と、明るく感じることもあるのですが、どちらにせよ頭の中をコロナに支配されちゃってる感は否めないのです。

ひとつのことに頭を支配されるって、良くないことですよね。
コロナのみならず、仕事でも恋愛でも趣味でも。

依存症みたいになって、いろいろと要らないこと、不毛なことを考え始めますし、それがなくなったときに、次のことを上手に考えられなくなってしまいますからね。

そのへんは、上手くチューニングしなきゃねということで、意識的にコロナと関係のない世界をイメージし続けています。

それでもやっぱり、感染者数が増えた/減ったと、一喜一憂してるんですけどね…。

「好きなもの」のことを考えよう

コロナ以外のことで頭の中を満たすために、思考をコロナに支配されることに抗うために「好きなこと」を考えたり、「快適な状態」をイメージすることを意図的にやっています。

先日投稿した「風通しの良い場所へ、見晴らしのいいところへ」なんかは、その一端ですね。
そんなことを考えることで、気が晴れるし「これからいいことありそうだな」という気になれるのですよ。

ここのところずっと「好きなことをやれ」的な言説が広がり続けてますよね。
僕も、完全にその考え方に感化されていて、さも自分の言葉であるかのように何度も他人に言っていますし、自分の頭の中でも反芻し続けています。

たぶん昭和60年代の「フリーター」って言葉ができたくらいの時代から、ずっとそんなことをいい続けてるように思います。
当時は「フリーター」って、ちょっとイキがって使う、カッコ良さげなワードだったのですよ。

その当時、社会人駆け出しの僕よりも、フリーターの方がお金いっぱいもらってましたから、そりゃ意識しますよね…。「9ヶ月フリーターやって、3ヶ月ハワイ」なんて人もいましたからね。

なんだか僕が社会人になってから、こうしてセミリタイア人になるまでずっと世間は「好きなことをやれ」っていい続けていたような気がします。

でも「好きなこと」ばかり考えてると「好きなことってなんだ?」みたいなことを考え始めたりするのですよ。

不毛なことを考え始めているのか? ちょっと思考が深まってるのか? は謎ですけどね。

なんとなく社会全体が「好きなことをやれ」教みたいな感じになってるので「ん? ちょっと待てよ」ってなってるだけなのかもしれません。

僕がずっと生業にしてきたデザインという仕事もそうなのですが、「好き」ではじめたはずなのに、途中で何度も「嫌い」が混ざり込んで来ましたからね。

でも概ね「好き」のまま、手放せたような気はします。

過去に「デザイナーは引退しても、デザインは続けるよ」という記事を投稿したように、デザイナーという請負業務は辞めても、その間培ってきた思考様式は一生残りつづけるでしょうし、そういうものの考え方をしているときが快適なのです、「好き」なのです。

「好き」なものって、少々の「嫌い」が混ざり込んでいても「好き」のままなんでしょうね。

たぶん、最初っからそうなんですよ。
「好き」って、あ〜でもないこ〜でもないと理屈を組み立てて作り上げるもんじゃないような気がするのです。

とりあえず、コロナのことばかり考えてるとどんどん気が病んでいくから、「好きなもの」のことを考えましょう。
その「好き」はもう、あなたの頭の中にあるはずなのですから。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。