自分と考えが違う人と、無理して交わることないよね
2020.05.15
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。ここ数ヶ月でネット上、とくにSNSが先鋭化して「こんなにも自分と考えが違う人がいるのだなあ」と感じるようになっています。あまりしんどいのも嫌なので、否定はしないけども関わらないくらいの距離感が一番いいのかな? と思っているのです。
「自分が変わる」が、一番やっかい
自分がずっとアタマの中で考え続けていたのだけれども、上手く言葉にならなくてボンヤリとしたままだった思考が、思いがけず言語化されることってありますよね。
こうしてブログを書き続けている効能のひとつに、それがあるのですよ。
朝起きて、まだ顔も洗っていないうちからPCに向かい。テキトーに思いついたことを「書き始めて、書き終える」ことを日課にしているのですが、起き抜けのボーっとしているときだからこそ、あまり考えすぎないし、少々文章の構成や言葉の選び方にアラがあっても許容できるし、言い訳にもなってるのですよね。
思考が、思いがけず言語化されるっていっても「我ながら、これは名言」って感じじゃなくて「そうそう、こんなこと考えてたんだよね。あれ、前にもこんなことあったかな?」くらいの感じで、どうせまた忘れて、しばらく経って同じことを「ヨシっ言語化できた」とか繰り返しちゃうんだろうな、とも思います。
昨日も「リモートワーク(テレワーク)は地方移住を促進するか?」という記事を書いていて、最後のところで、
世間が変わるよりも。会社が変わるよりも。「自分が変わる」が、一番やっかいなのですよ。
なんてことを書きましたけれども、これ、子供のころからずっと「うっすら」と、だけれども「いつだって」考え続けていましたね。
投稿したあとに「あ、これ」と気付いたものですから、大したブラッシュアップもせずに、ダーっと書いて、バっと上げちゃいましたけど、もうちょっと丁寧な文章にすると、
社会や組織を「変えたい」っていう人は多いけど、「自分が変わります」っていう人、少ないですよね。そっちのほうが大切なんですけどね。
みたいなことですね。
中学・高校・大学と、バレーボールをやっていた頃のミーティングとか、社会人になってサラリーマンとして会社に勤めていた頃のなんちゃら会議とかでも
- 「こういうところに課題がある」
- 「他人・他部署にもっと機能してほしい」
- 「あの部分をルール化・制度化すべき」
みたいな課題はたくさん集まるのです。
「ならば、どうやって解決しましょうか?」という話題になるととたんに「みんなで少しずつ変えていこう」とか「まずは○○部門で叩き台を作って、次の議題にしよう」みたいな話になるし、「では、(問題提起をした)あなたは何をしますか?」と矛先が向くと、急に無言になるものなのですよね…。
当然、「他人は」ではなくて、「僕も」なのです。
昨日、自分で投稿した記事を眺めながら「こういうのも、オレがフリーランスになることを後押ししてくれた要因だよな」などと思ったのです。
自分サイズで手を動かせることを
新型コロナ禍も、そろそろ収束しそうかな? などと思っているのですが、ここ数ヶ月間、ネット上とくにSNS界隈がピリピリしてましたよね。
自分で抱えきれない不安や不満を感じてしまうと、必ず外に敵を探して「誰々が悪い」「何々が足りない」と、犯人探しを始めるものなので、それはそれで仕方ないものだと思います。
だけど、それらの影響を受けて自分まで犯人探しを始めたり、ちょっとした他人の振る舞いに批判の目を向け始めたりすると、それはそれでシンドかったりするのですよ。
精神的に参っちゃいますよね。
前述の通り「社会を制度を変えるための一助として、自分は声を上げたい」という方々を避難するつもりはありませんが、僕は「シンドいものには関わらない」ように、意図的に自分を調整することを選んでいます。
それでも、あまりにも社会的影響の大きな出来事なので、こうして連日ブログに「コロナ・コロナ」と書き続けることになってるんですけどね…。
「あまり考えないように」とは思っていても、結局は直撃食らっちゃってますね。
ネットが生活のインフラになってる以上、他人の不平・不満を視界に入れないことはできませんが、「そういう人と絡もうとしない」くらいの感じがいいんでしょうかね。
いろんな人が上げてくる問題点を自分の中に取り込んで、それらが解決できない理由を他人に求めるよりも、とりあえずは自分が手を動かすことで自分の身を助けることを探して行動したほうが、心も落ち着きますよね。
「天下国家の為」とか「世のため人のため」みたいな、立派な仕上がりにはなりませんが、「思い思いでいいんじゃない?」くらいに思っているのです。
とくにこういう、何をどうしたらいいかわからないときには、いったん「自分サイズ」で考えたほうが楽なのですよね。
逆に「こんなときだからこそっ! 声を上げることが重要なんだっ!」という方もおられることも、もちろんわかっていますし、否定もしません。
僕は僕なりの考え方を持っています、というだけのことなのです。
自分と考えが違う人を否定しようとは思いません
ものごとを大きく考えることも大切なのだろうし、そういう役割の人もおられるのだろうと思います。
でも人にはそれぞれ「分(ぶん)」というものがあって、僕は「誰にも認識されなくても構わないから、とりあえず小さく動いてみる」くらいが楽だし、気分がいいのです。
そのくらいが僕の「分(ぶん)」だと思っているのです。
たとえば、地域創生を語るとすれば「この自治体は○○を特徴とすべきだ」とか「大きな工場を誘致して、住民の雇用機会を」とか「高規格道路の建設を陳情して…」みたいなのは、とても背負いきれるものではないのです。
たぶん、天下国家を論じる器に生まれてきていないのですよ。
せいぜい「空き家いっぱいあるから、ひとつ買ってみますね」「そこで自分の生活を作ってみます」くらいが、ちょうどいい寄与の仕方だろうと考えているのです。
(参考:他人の趣味と向き合う ― 萩市の古民家を買うことにしました)
今こんな時期だから、移動すらままならなくて「せっかく買った家、草ぼうぼうになってると嫌だな」とか思いながら、やきもきしてますけどね…。
前述の「フリーになったとき…」もそうですが、実際に「ちょっとだけ動いてみる」をしてみると、動いてみた分だけ景色が変わって、次の展開が見えてきます。
その場に立ち止まって課題ばかりを探し続けると、そのうち「もっと大きな課題」が欲しくなってしまうんですよね。
どうだろ? 他の人は違うのかな?
僕はそうなりがちなので「とりあえず手を動かしてみる」「自分サイズで解決してみる」が向いているようなのです。
だって、国の文句を言っても、僕も国民のひとりだし、コミュニティの文句を言っても、僕もその構成員なのですからね。
たぶん「この国にはこんな問題がある」って叫ぶ人も要れば、「とりあえずオレは自分ちの周りをこんなふうにしてるよ」って人も要るのです。
僕は、大きな問題を掲げながら大きな声で叫ぶ集団に加わることは苦痛だし向いていないので、後者でいるのが「分(ぶん)」だろうな、と思っているのです。
考えが違うのならば、無理して人生交わること、ありませんよね。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。