別にどっちでもいい、か
2020.05.26
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。よほど自分に影響があることでもない限り、大勢に従うことが多いのです。あまり敵味方に分かれることなく「そんなの、どっちでもいいよ」と思ってる。そんな質(たち)なのです。とくにネット上のコトバ争いが目につく昨今、改めてそう感じるのです。
「どっちでもいいよ」と感じることが多いのです
「もっと社会の出来事に興味を持とうよ。賛成か、反対か、意思を表明しなくちゃ、参加しなくちゃ」と言われるかも知れないけれども、僕のようにフニャらかに生きていると「別にどっちでもいいんじゃないかな」と思うことが多いのです。
緊急事態宣言が全国的に解除されましたね。
でも、5月中は「都道府県をまたぐ不要不急の移動は避ける」。6月になったら「首都圏の1都3県や北海道への移動のみ自粛」。6月の後半くらいから「移動制限は求めない」と、段階的な緩和になるもようですね。
僕にとっては、以前投稿したように「二拠点生活、停止中」のままだし、この草木の伸びる時期に買ったばかりの山口県萩市の家の様子も見に行けないし「緊急事態宣言解除っていわれても、まだまだ東京に張り付きじゃん。何もできないじゃん」という状態なのです。
こうしてなんだかんだと、ひとしきり文句を言う割には「そっか、移動は6月の後半になってからか。ま、いいか」と従うタイプなんですよね。
別にそれしかやりたいことがないわけではないし、むしろ「その間に、別のやること探そう」と思う質(たち)なのです。
若い頃はもっと、怒り続けていたような気もしなくもないのですが、どちらにしても「この件について、自分は専門家でもないし、さほど大きな影響を受けるわけでもないのだから、別にどっちでもいいか」と思うことが多いのです。
とくに緊急事態宣言が出されて以降、外出自粛だとか、リモートワーク(テレワーク)だとかで、みなさんいろんなことを考える時間を獲得されたこともあるのでしょうね。
やれ「政治家の発言がどうだ」とか、やれ「自粛警察のなんやかんや」とか、「専門家の発言に対するどうしたこうした」で、SNSを始めとするネットの世界が、とにかく「考える」ことから、「反応」することに色を強めはじめたような気がしていたのです。
そんな時勢になってから、ますます僕にとって「どっちでもいい」と感じることが増えてきたような気がするのです。
理解なんて後回しでいいですか?
家ごもりを余儀なくされて以降、SNS上で政策や、著名人の発言、眼の前で起こっている事柄について言葉を戦わせている方々と同様に、僕も潤沢に暇な時間があるのです、なんせ無職ですから。
ネットでいろいろと調べてみれば、いろんな考え方や過去の出来事などに出会えるのですが、それでものごとが「分かる」かというと、かえって「分からない」ことの方が増えていくような気がするのですね。
それは前項でも書いたように、僕に知識がなくて、当事者でもないからなのでしょうけどね。
「この地球で暮らしている限り、みんながすべての当事者だ」っていうのも、ちょっとピンと来なかったりするのですよ。
遠くの国で起こっている人権弾圧よりも「今日こそは捨てにいかないと、口を縛れなくなっちゃうよ」という、キッチンのゴミ袋の方が重大な関心事だったりするのです。
そもそも軽重を比較するようなことでもありませんけどね。
世の中なんて、分からないことだらけに決まってるのですよ。
分かっていないからこそ、みんながこうして意見を戦わせているのですよね。
そしてときには、個人を自死に追い込むまで「自分こそが正しい、自分の意見を聞け」という、正義の攻撃が続いたりするのです。
「好きの反対は、嫌いではなく無関心」という有名な言葉があります。
その言葉のせいなのかどうなのか謎ですが、何かにつけ「無関心なのが一番良くない、好きか嫌いかどちらかに付きなさい。理解なんて後回しでいいから」という風潮も感じます。
なんかね、ちょっと引っかかるのですよ。
人間、生きてるうちに、そんなに何でもかんでも関心持てませんよね。
しかも、ろくすっぽ理解もできていないうちから敵味方に別れろなんて、無茶な話なのですよ。
「別にどっちでもいいよ」で構わないと思うのです。
敵でも味方でもなく、好きでも嫌いでもなく、良いとも悪いと決めてかかることもなく、肩の力を抜いて会話に参加することなんて、いっぱいあるはずなのですよね。
その過程で自分の頭で考えてりゃそれでいいと思うのですよ。
他人の「正しさ」に同調する必要なんて、あるわけないのです。
6月の終わりくらいに、萩に移動します
誰が表層的で、誰が深い考察をしているのかを考えるのもあまり意味がないような気がするんですよね。
世間的には、深い考えを持つことが「良い」ということになっているし、考えの深みを披露することを職業にされている方もおられますから、そのこと自体を否定するわけでもありませんけどね。
自分ごとに置き換えたときに「そんなに、全部のことを深く掘り下げる必要もなかろ」と思うので、他人に対しても「うん、そのくらいの理解で何も困らないよね」を許容すべきだと思うのです。
「この人の考えは、浅すぎる」などと軽視しても、あまり意味がないように思うのですよね。
そもそも、みんなが敵味方に別れようとはしていないのです。そこまで深く思考することの方が少なかったりするのです。
大抵のことは、サラっとしか考えていないのですよ。
僕だって、SNS上でなんとなく「この人とは意見が合いそうだな」とか「たいていこの人とは真逆のことを考えてるな」というグループ分けがなされていて、はじめて向かい合う事象では、どうしても意見が合いそうな人が発信していることに引っ張られがちではあるんですけどね…。
ただ「この人がこう言っているから、自分もこうだ」と考えるのは、間違いだと思うのです。
考えれば考えるほど「オレはこっちだ」と断じ切れないことの方が多かったりしますからね。
そして、誰かがそれを「正しい」と思うことも、「間違ってる」と思うことも自由だったりするのですよ。
当然僕にも、自分の生活に関わることや、関心のあることについては「こっち派」みたいな部分はありますけどね。
でも、多くの事柄については「別にどっちでもいい」と思っているのです。
そして「どっちでもいい」ことについては、概ね大勢に従うようにしています。
なので「非常事態宣言、解除されたじゃん。どう振る舞おうがオレの勝手だよな」などとは思わずに「そっか、移動制限の解除は6月の後半になってからか。うん、それでいいよ」と思っているのです。
6月の終わりか、7月のはじめくらいに萩に移動しようと思います。
二拠点生活の継続か、本移住かは、あれやこれやの進捗次第ですけどね…。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。