嫌いなことを言語化していると…
2020.06.11
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。「なんかイヤだな」って感覚を大切に考えています。僕は「好きなこと」よりも「嫌いなこと」のほうが言語化しやすいと思っているし、そうやって自分の志向を整理するクセがあります。でもそれが、ちょっとしたストレス源になったりもするのです。
「なんかイヤだな」って感じ、大切ですよね
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」って言葉がありますよね。
ずっと、野村克也・元野球監督の言葉なのだろうと思っていたのですが、もともとは、肥前国平戸藩の第9代藩主、松浦清(松浦静山)の残した随筆集『甲子夜話』の中の一節なのだそうです。
大雑把に解説すれば、
「勝負は時の運ではあるものの、偶然に勝つことはあっても、偶然に負けることはない」
「うまく行かないときには、それなりの理由があるもんなんだよね」
という感じでしょうかね。
人は誰しも、上手く行くことは好きだけれども、失敗することは嫌いですよね。
ちょっとした手抜かりだったり、能力不足が出来不出来を分かつのならば、常日ごろから成果をイメージした準備行動を継続することで、危機を察知するための直感力は養われるし、事前に失敗の理由を予測できたりするのだろうと思います。
何を持って「成功」とし「失敗」とするのかは、時と場合だったり、その人の性格にもよるんでしょうけどね。
ざっくり言うと「なんかイヤだな」って感じ、僕は結構重要だと思っているのですよ。
このブログの至るところで「好きなことを仕事に」とか「自分の好きなようにやればいい」みたいなことを書いているのですが、どこかしらで自分自身に言い聞かせていたり、そうすることで自分の行動を軌道修正し続けている部分があるのです。
おそらく僕は「好き」と同じくらい「嫌い」を大切に捉えています。
「好き」は、わりと口に出しやすいし、ブログにも書きやすいので、思いついたらすぐにアウトプットすることが多いのですが、「嫌い」は、わざわざ口に出すほどでもないというか、あまり掘り下げたくなかったりもしますけどね…。
「好き」よりも「嫌い」のほうが言語化しやすいんですよね
なんとなく「あれ? ついこないだもこんなこと考えてなかったっけ?」と思い、過去記事を検索してみたら「好きの理由、嫌いの理由」という記事を投稿していました。
僕は定期的にこういうことを考えるようになっているようです。
前回こういうことを考えた理由はもう忘れてしまいましたが、今日考えているのは人間関係由来なんですよね。
僕は、このブログに「人間関係の断捨離」というタグを設けているように「なんとなく、人間関係が入れ替わりつつあるフェーズだな」などと思っているのですよ。
いったん労働をやめて無職になったり、居住地を東京から山口県萩市に移したりと、自分を取り巻く環境を大きく変えている最中なので、当たり前っちゃあ当たり前なんですけどね。
なんとなく「あっち側に向かいたくないな」と感じている方面があったりするのです。
上で挙げた「「好きの理由、嫌いの理由」」では、
「好き」よりも「嫌い」のほうが言語化しやすいんですよね。なんででしょうね?
なんてことを書いていますね。今でも、そう思っています。
たとえば、誰かの人物評をするときでも、嫌いな理由は「考え方が合わない」とか「所作がガサツ」「服のセンスが気に入らない」などなど、つぎつぎと挙げることができますが、好きな理由は「なんとなく一緒にいると楽なんだよね」とか「打てば響くんだよ」みたいな、ザックリとした評になりがちですよね。
人でも、物でも、事でも、だいたい似たようなもんだと思います。
無理やり好きな理由を挙げようとすれば、いくつかの言葉を頭に浮かべて、そこから選び取ることは可能ですが、どれもしっくりきませんよね。
たぶん好きな理由なんて「なんとなく感じいいんだよね」くらいで十分なのですよ。
ちょっとしたストレス源にもなるのです
こと人間関係についてなのですが、「なんかイヤだな」という直感を言語化したくない場合が、ちょくちょくあるのですよ。
対個人にしても、対集団にしても、ちょっとした違和感を分解して言葉を作り始めちゃうと、どうしてもその言葉を誰かと共有したくなってしまうのですよね。
それに臆するのです。
「なんかイヤだな(=嫌い)」が前提になっているので、その行為自体が陰口のようになってしまいますからね。
また、陰口・悪口って、盛り上がるし、いい娯楽になりがちなんですよね…。
50代も半ばを越えてまで、そんなことをしたくないのです。
こうして、ただ思いついただけのことを文章にしてみると、いかにも「深き悩み」を抱えているような仕上がりになっていますが、有り体に言えば「距離を置きたい人と、自然に距離を取りたいな」ってだけなのです。
(参考:他人と距離を置きたくなるとき)
僕は、冒頭で述べた「不思議の負け」に陥らないように、生理的に感じる「なんかイヤだな」の理由を掘り下げるクセがあります。
その方が「好き」「楽しい」「快適」と向き合うよりも、言語化しやすいので、自分の向き不向きを分析しやすいのですよ。
しかしそのクセによって、少々内向的で暗い時間を過ごすことになりますし、場合によっては上記のようなちょっとしたストレス源にもなるのです。
この年まで、こんな質(たち)で生きてきましたから、直そうたって、そう簡単なことじゃありませんけどね。
それにデメリットよりも、メリットのほうが大きいような気がしているので、このまま生きて行くことになるのだろうと思っています。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。