成果をイメージしながら、淡々と工夫を繰り返す
2020.06.19
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。現役の職業人だろうが、セミリタイア人だろうが「なりたい自分」を成果としてイメージし続けることって、延々と続くと思うのですよ。そして、それに向かって、淡々と工夫を繰り返していくことが、生き甲斐みたいなことなんじゃないでしょうかね?
「努力に逃げるな」
こうしてブログを書き続けていると、ときどき「これ本当に自分が書いたの? なかなか気の利いたことを書いてるじゃない」と感じるときってあるものなのですよ。
別に「名言」とか「名文」ってわけでもなくて、後から自分で読んでみて「そうそう、こういうこと考えてたの。ちゃんと言語化してるじゃん」みたいな、自分の中で腹落ちする言葉って意味ですね。
その直前に他人のブログやSNSに目を通していて、それに影響されて作った言葉なのかもしれませんけどね。
ふた月くらい前に「継続することの価値」という記事を投稿しているのですが、そのリード(導入文)で、
僕は「継続の価値」を信じてるのですよ。継続しても報われないことだってありますし、悪い習慣につながることもあります。それは継続の先にある成果をイメージしつつ、継続の方法を微調整しつづけて始めて「価値」たりえるものだと思うのですよ。
なんて書いてるんですね。
とくにその中の「成果をイメージしつつ、継続の方法を微調整しつづける」の部分ですね。
「そうだオレ、自分でこんなこと書いてるじゃん。あのとき、これ言ってやれば上手く伝わったかもな…」という場面がちょっと前にあったのですよ。
「努力に逃げるな」という言葉を聞いたことありませんかね?
初めて聞いたのはいつ頃のことだったか…。おそらくいろんな人たちが、いろんな場面で使ってるのでしょうね。
僕もこれまでに、何度か聞いたことがあります。でも「頻繁に耳にする」ってほど有名な言葉でもなさそうです。
簡単に言えば「努力を目的化したらダメだよ」って意味ですね。
努力って、実はちょっと危険なんですよ。
間違ったことを繰り返していても「努力しています」って姿を他人は讃えてくれますからね。
成果に至らずとも「努力家」とか「がんばり屋さん」には、なれるわけです。
そういう「頑張ってる人」からの近況報告を受けつつ、次第に「相談」っぽくなったので「やり方が違うんじゃない? ちょっと変えてみたら?」と伝えてみたことがあったのです。
過去に「アドバイスって役に立ちませんよね」という記事を投稿したくらいで、僕は他人にアドバイスするのもされるのも、あまり気が乗らない質(たち)なのです。
でも、そのときは柄にもなくアドバイスめいたことをしてみたのです。
努力のベクトルが違うと、被害が大きくなりますよ
当然、先方は「どういうふうにしたらいいでしょうかねえ?」みたいなことを聞いてきますよね。
当人は、傍から見ても「努力してる」のですよ。
でも「それ、楽しいか? 正しいか?」と考えてみると、僕はちょっと違った印象を受けたのですよ。
まさに前項で書いたような「努力が目的化してる」と感じていたのです。
本人も「やってる。努力してる」って言葉の端々に出してましたしね。
だから僕は「努力に逃げないほうがいいかもね。それが楽しいことなら、努力って感覚はなくなると思うし、それが正しいことなら、状況も変わると思うよ」みたいなことを伝えました。
すると、どうやら「逃げる」というワードが気に障ったようで、変な空気になってしまいました…。
彼としては「ああしてみてはどうだろう?」「他でこういうの見たことあるよ」みたいな、具体策を提案して欲しかったようです。
自分で思いついた、これまでと違う方策をひとつひとつ採用して、実施して、検証する、を自分で繰り返してみることをスタートして欲しかったんですけどね…。
だって、僕が提案することをやって成果に至らなかったら、彼は時間を無駄にしたことになるし、何よりも「新しい方策を着想する」という機会を1回失ったことになりますから、検証も不完全なものになりますからね。
それで、僕はあとから「努力に逃げるな」じゃなくて「成果をイメージしつつ、継続の方法を微調整してみたらどう?」みたいな言葉を選択できれば良かったのかな? などと思ったのです。
やる気が出なくて成果に至らないのならば、さほど実害はないのですよ。
自業自得ですからね。
でも、真面目に頑張ってるのに、いつまで経っても成果が得られない場面って多いんですよね。
こっちのほうがやっかいなのです。
端っから向いてない場合もありますし、努力する方向性が間違ってる場合もあります。
そして時間は勝手に経過していきますから、被害はどんどん大きくなっていくんですよね。
ここまで「知り合いにこんな人がいる。困ったもんだ」みたいな書き方をしていますが、僕自身も当然そういう要素を含んでいるのですよ。
結局、成果に至らず終いだったこと、過去にいくつもありますからね。
セミリタイアしても「なりたい自分」をイメージし続ける
先日投稿した「無職になったら、月日が経つのが早すぎる」で「職業人と無職では、成果の質が違うんじゃないかな?」ということに触れました。
だから、これから始めることのいくつかは「努力に逃げる」羽目になるんじゃないかな? と感じています。今、無職の初心者ですからね。
しかも、50代半ばを過ぎているので、いろいろと焼きが回って来ているのですよ。
「デザイナー辞めよう」と決心したときのような、社会的・職業的な焼きの回り方じゃなくて、もっと自然な、
- 走れなくなった
- メシの量減った
- 酒弱くなった
- 集中できなくなった
- 冷房つけてると、肌痛い
- まぶたに変なイボできてる
みたいなことです。
(※デザイナーを辞めようと決めたときのことは『「プロ失格」を許容して、残りの人生を再構築する』あたりをご参考に)
生き物として弱ってきてるんですよね。
何が言いたいかと言うと「年齢に逃げる」という逃げ道を新たに獲得しているのですよ。
しかも、生活のための労働をしなくても、飢え死にすることはない程度の資産を準備した上でセミリタイア生活に入っていますから、このまま無職でい続けても生活に支障はないのです。
ただ、それじゃつまんないですよね。
日本人男性の平均寿命まで、あと四半世紀もあるのですから。
と、思いつつも「努力に逃げ」「年齢に逃げ」、堕落した生活を送る自分の姿も想像できてしまうのです。
あと数ヶ月で山口県萩市に移住して、環境をガラっと変えます。
もういっかい「なりたい自分」をイメージしなおして、その状態に向かって工夫を繰り返してみようと思っています。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。