他人をうらやむ気持ちが、加齢とともに減退中
2020.06.24
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。他人をうらやむことって、あまりいい文脈で使われませんよね。でも振り返ってみると、これが「やる気スイッチ」と直結していたような気がするのですよ。そして、加齢とともに失われてきているのです。僕にとっては「老眼の次に来たのがこれ」なのです。
「うらやましい」は、やる気スイッチ
「これも老いなんだろうな」とか「たしかにオレは老後に向かってるな」と、感じる要因のひとつに、他人をうらやましく感じなくなったということがあります。
過去の自分を振り返ってみると、ずっと「何かを持っている」「何かができている」人のことをうらやましいと感じてきた人生だったのですよ。
幼少時代にさかのぼれば、街で見かける同じくらいの歳の子が着てる服、履いてる靴、近くで見守っているお父さんお母さんの接し方、買ってもらってるオヤツ…。
もう少し大きくなれば、勉強の出来不出来や、足の速さ、鉄棒や縄跳びの上手さ、みんなで遊んでるときのリーダーシップだったり、人気の集まり具合。
バレーボールを始めれば、全国大会などで活躍している人たちがうらやましくて仕方なかったし、大学に進学してからは、日本代表チームに選抜されたり、実業団チームから入社のオファーのあるチームメイトのことを「やっぱ、ものが違うもんな」と理解はしつつも、うらやましさを持って眺めていたり「おめでと、ヨカッタじゃん」と声をかけたりしていました。
もちろん、社会人になってからも、自分がやりたいと希望している業務に先に就いている先輩や、上司や顧客の覚えめでたき人をうらやんでいました。
「デザイナーになりたい」と思ってからは当然、すでにデザイナーを生業にしている人がうらやましくてたまりませんでした。
でも、フリーランスになってからは、ちょっと様子が変わって、分担すべき役割が異なる人とチームを組み、自分の受け持ち作業は自宅兼作業場で孤独に取り組むようになりましたので、うらやむべき他者が視界から消えたんですね。
それでも、メディア等で紹介されている同業者のやってる仕事、言ってる言葉を見聞きしながら、その才能や獲得しているポジションを「うらやましい」と思い続けていたのです。
ときどき「自分は自分、人は人。いちいち他人とくらべて、うらましがりなさんな」という言葉に接することがありますよね。
僕も何度か、家族を含めた誰かから言われたことがあったように記憶しています。
誰にどんな場面で言われたのか、までは覚えちゃいませんけどね。
よく「ドーパミンが出る」とか「やる気スイッチが入る」とかいう言い方をしますが、僕にとって他人をうらやむことって、大なり小なりそういう意味合いを持っていたような気がするのです。
「他人をうらやむ」という行為が、単純に自分の中に「妬み嫉み」の感情を生み出すだけで、結果、自身の首を締めることにしか繋がらないのであれば、人はわざわざそういう気持ちを呼び起こさないように思うのです。
それなりの効能があるからこそ、人にはそういう感情が備わってるのだと思うのですよ。
老眼の次に来たのが、これ
冒頭でふれたように、いつの頃からか「他人をうらやむ」気持ちが、薄く弱くなっているのですよ。
これも、僕が「焼きが回ったな。いったんデザイナーをやめて、セミリタイアしよう」と感じるようになった要因のひとつだろうと思います。
(参考:集中できなくなった。こうしてひとつずつピースを失っていくのです)
加齢とともに「あの仕事、本来オレがやるべきでしょ。なんであっちに行っちゃったの?」とか「最近、僕よりもあっちの方が受注量、多くありません?」みたいな感情を持たなくなっていったのですよ。
思い返してみると、40代半ばくらいのころによく「収入8割くらいに下げて、仕事量5割にできるんなら、それがベストかな」なんてことを冗談交じりに言っていましたが、その辺りがはじまりだったのかもしれませんね。
こういうのって、みんなに起こる現象なんでしょうかね?
「加齢+人をうらやむ気持ち」とかでググってみましたけれど、誰もそれっぽいことに言及してませんね…。
僕にとっては「老眼の次に来たのが、これなのよ」ってくらいに重大なことだったんですけどね。
たぶんみんな「枯れる」とか「丸くなる」の中に含めて語っちゃってるんでしょうかね?
言いようによっては「剣が取れて、円熟味を増されましたね」みたいな、褒め言葉にも繋がりそうな変化ですからね。
この「うらやむ気持ち」って、他人が持っているのかどうなのかを量ることもできないし、当然、比較することもできないのですよ。
老眼なら「それ遠近? オレもなんだよ」みたいなやりとりで互いの状況を共有できたりしますけどね。
食事の席で「最近、他人をうらやんでる? どのくらい?」なんて会話しませんもんね。
子供のころからずっと言われてきた「他者の気持ちが分かる人になりましょう」って、実はそうとう無茶な話なのです。
別の機能を獲得しようとしているのかも
おそらく「もともと他人をうらやむ気持ちが、ありません」って人も多いような気もします。
いわゆる「天才」って呼ばれる人なんて、そうなんじゃないでしょかね?
自分がそのカテゴリにいないので、想像でしかありませんけど…。
また、自分が興味を持たない分野に関してもそうですよね。
僕は加齢とともに「他人をうらやむ気持ち」と同時に、物欲も失っているのですよ。
一時期、とくにフリーランスになったばかりの頃は、物欲も旺盛でした。
高い車を買いたかったし、靴や時計、カバンなんかもそうで「頑張って、仕事いっぱいもらえるようになって、稼いで買うぞ!」「こういうのがステータスだもんな」なんてことを考えていたのですよ。
それは、ちゃんと生業として回るようになってから「自制」というカタチで抑え込んできたのですけどね。
(参考:50代にして自動車免許を取るつもりです)
それが気付いてみたら、とくに自制せずとも「消費によってステータスを補強しよう」という欲求はまったくなくなっていました。
なので、街中でいい車を見かけても、出会った人が何百万円もする時計をしてても何とも思わなくなっています。
以前なら「おっ、僕もこれ欲しいと思ってるんすよ」みたいなことを言ってたんですけどね…。
若かりし頃は「物欲」も「うらやむ気持ち」と同様に、やる気スイッチと直結されてたのでしょうね。
とくに「こういうスタイルで生きていこう」と思っているわけでもないのですよ。
なんとなく自然にそうなっちゃってるんですよね。
だから加齢とともに、他人をうらやむ気持ちが減退しているのも「自然なことだ、これでいいんだよ」という気持ちでいます。
「こんなんじゃダメだ。いくつになってもやる気を持たなきゃ」などとは思っていなくて、なんとなく、そのまま自然に任せておいたほうがいい結果に繋がりそうな気がしているのです。
もしかして、別の機能を獲得するための準備が始まってるのかな? などと思っているのです。
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