まったく共感できないけど「いいね!」
2020.07.08
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。facebookの「いいね!」や、twitterの「♥」を押すという行為は、必ずしも「共感」や「同意」を意味しませんよね。中には、まったく共感できないけれども、何かしら心に引っかかるものがあってアクションを起こすこともあるのです。
「いいね!」は「共感/同意」とは限りません
このブログと連動している「萩ドットライフ@山口県萩市でセミリタイア生活」と別のtwitterアカウントを持っていて、通常はそちらの方を多く使ってたりします。
使ってるって言っても、いろんな情報を収集する用のアカウントなので、あまり他人と絡んだり、リアルの友人・知人と繋がったりもしてませんけどね。
facebookについては、現在ほぼ使っていません。
(参考:facebookを使うのをやめた理由)
それでも、ときどきは開いてみてタイムラインの上の方だけ眺めて、気になった投稿に「いいね!」を押したりします。
この、facebookの「いいね!」、twitterの「♥」をクリック(タップ)するという行為ですが、必ずしも「共感しました」っていうときだけじゃありませんよね?
みなさん、どういう使い方をしてるんだろ?
僕は「へえ、そういう考え方もあるんだね」というときにも「いいね!」や「♥」を押したりもします。
正直言って「おっ、この人オレと同じこと考えてるじゃん、ウレシイ」と思うこともあれば、「ああ、全然違う考え方持ってるんだな、ウレシイ」と思うときもあります。
もちろん逆に「オレと同じじゃん、だからツマンナイ」や「ああダメだ、ぜんぜん理解できない。コイツとは人生交わらないな」ってこともあるのです。
人間同士、わかり合えるのがいいのか? わかり合えないところがいいのか? よく分かっていません。
ありきたりな言い方をすると「ケース・バイ・ケースだよね」という、つまんないところに着地してしまうのです。
共感できるもできないも、成長とともに変わりますよね
ただ、加齢とともに「わかり合えない」ところを面白がることができるようには、なってきています。
子供のころ、友達の話し方や振る舞いをマネするようになって、家に帰って親から注意された経験、みんなあるんじゃないでしょうかね?
特に幼少期は他人と共感できること、同じ考えを持ってること、同じものを好きであることとかが、単純に嬉しかったし、楽しかったような気がします。
「いつ頃まで?」と考えると「小学校の高学年くらいまでかなあ」とも言えるし「今だにそうだよ」とも思えるのですけれどね。
それがだんだんと成長するにつれ、わかり合えていたはずの人の中に「わかり合えない」部分を発見することになるんですよね。
自分も相手も成長しますし、各々異なる体験をしますから、ズレが生じたりもするのですよ。
その頃からだんだん「わかり合える」を前提にする場面と「わかり合えない」を前提にする場面が、混ざりあってくるのですよね。
どういうしくみになっているのか? 自分でコントロールできるものなのか、どうなのかよくわからないのですが、なんかゴチャゴチャしてくるものなのですよ。
結局はどっちでも、結果に変わりはなかったりするんですけどね。
だって、自分の中だってそうなんですもん。
こうして毎朝、思いついたことをブログ記事として記録しているのですが、数ヶ月前に書いた自分の記事に共感できなくなってることすらあるんですよね…。
当時はまったく持ち合わせていなかった考え方に、いまドップリとハマっていたり。
それが相手が他人となると、相手も変わり続けてるし、自分も変わり続けてるのですよ。
いっときの「わかり合える(=共感できる)」も「わかり合えない(=共感できない)」なんて、ときが経てばすぐに変わるものなんですよね。
共感できないけど、尊重できるもの
SNSの「いいね!」に話を戻しますと、共感できるものについては「オレもそれ、いっしょ!」と素直に「いいね!」できるのですよ。
当然、時間が経てば「なんか違うな、今そんなこと考えてない」ってなるのかもしれませんが、当然SNSのタイムラインなんて流れていくものですから、憶えてやしませんよね。
それはそれでいいのです。
それとは別に、まったく共感しないけれども、なんとなく引っかかる言説ってあるものなのですよ。
そのまま流れていってしまうものが多数だとは思うのですが、あとになって「あのときのアレと同じこと、考えるようになっちゃってるな」なんてこともあるのですよ。
その当時から、自分の深層にあったから、なんとなく引っかかって「いいね!」したのか?
偶然その投稿を目にして、なんとなく「いいね!」しちゃったから、そう考えるようになったのか、は謎ですが、なんとなくそんな経験があるのです。
加えて、いつまで経ってもわかり合えないし、共感できないけれども「尊重」できるものとの出会いみたいなのってありますよね。
前項の「加齢とともに『わかり合えない』ところを面白がることができるようになってきてる」と似た感覚なんですけどね。
あまり人付き合いに「浅い/深い」という概念を持ち込むのもどうかと思うのですが、あえてそれを使って表現すれば、浅いところでわかり合えるよりも、深いところまで潜った結果、わかり合えないものがやっと見えたほうが面白い、みたいな感覚ですよね。
なんだか、言葉遊びみたいな感じになってきちゃいましたね。
そんなことを考えながら「もうちょっと、SNSを上手く使いこなせないかな」などと考えているのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。