ものごとを記憶したり、整理したり
2020.07.25
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。記憶することの価値を少々ないがしろにしていたな、と感じています。「ネットがあるじゃん、ググればいいじゃん」が占める割合が大きくなり過ぎてたようです。記憶していないことは自分の頭の中で整理されないのですよ、発想の成分にならないのです。
ランニングの習慣は、思考の習慣
ランニングの習慣が上手くいってないのですよ。
新型コロナ禍により緊急事態宣言が出されたのが2020年4月7日、解除されたのが5月25日でしたね。
この間ほとんど朝ランをしていなかったのです。
理由はかんたんで、マスクをしてランニングするのがイヤだからです。
ランニング中なんて他人と2m以内の距離に近づくことなんてほぼないし、あったとしてもサッとすれ違う程度のことでしょう。
「マスクなんて、要る?」と思いつつも、みんながマスクをして走ってるし、いちいち周囲を気にするのも億劫ですからね「じゃあいいや、しばらく走らない」って決めちゃったんですよね。
どうやら、その間にめっきり走力が落ちてしまってたようです。
「走力」っていったって、キロ6・7分程度の、のんびりペースでお決まりの8kmコースを走り切る程度のものなのですが、それができなくなってるのですよ。
途中でバテたり、飽きたり、ペースに乗れなくなったりして、走ったり歩いたりを繰り返さないと、いつものコースを踏破できないのです。
加齢も影響しているでしょうし、体重が増えたせいもありますね。
ヒザの調子もよくないのです。
それでも6月は順調に習慣が復活し、ちょっとは走り慣れし始めたと思ったら、またこの長雨で調子を崩しています。
たぶん僕にとって、ランニングの習慣は思考の習慣なのだろうと思います。
このランニングの時間が、生活の中でいちばん長くデジタルデバイスから目を離してるときなんですよね。
(参考:デジタルデバイスから離れるための朝ラン)
このインターネットブラウザもEvernoteもない時間に、いろいろと頭の中を整理することが習慣になっているのです。
いろんなクリエーター業の方々のインタビュー記事の中で「トイレの中でひらめきました」「私のアイデアは、お風呂の中で生まれるんです」なんて言い回しを見たことのある人も多いのではないでしょうかね。
たぶん、あれと同じことを僕は走りながらやっているのです。
「ひらめく」とか「アイデアが生まれる」なんていうと大げさな感じになっちゃうかもしれませんが、記憶していたことを整理する時間ですね。
その時間はPCもスマホも邪魔なのです。
誰かに聞くもの、ググるもの
インターネットの発達によって、僕たちは記憶することから免除されて「考えるチカラを身に付けよう」「変化することに向かい合おう」ということになっているようです。
「ググれば一発で答えが出ることを、無理して憶える必要なんてないじゃん」ということなのです。
そうして、どんどん記憶することから関心を失いつつあるように思うのです。
これまでの人生で、何度も他人に訊いてきたことってありませんか?
そのたびに「なんかオレ、いっつもこれ人に訊いてるな」と思うのですが「どうせまた誰かに聴けばいいや」と思っているからなのか、いっこうに憶えようとしない。誰しもがそんなことのいくつかを持っているように思うのですが、いかがでしょう?
たとえば僕ならば「リングイネってなんだっけ?」と「執行役員ってどんな立場?」って、たぶん10回以上は人に訊いています。
その都度「オレいつも人に訊くワリに憶えられないんだよね。ヨシ今日は憶えたぞ」って言うんですが、今もこうしてブログ記事を書きながら「リングイネ? 執行役員? ダメだ憶えてない、なんだっけ」ってモヤモヤしたので、いったん手を止めてググりました…。
もうね、憶える気がないのですよ。
誰かに聞くもの、ググるもの、ということになっているのです。
そしてこの2つ以外にも、認識すらしていない「誰かに聞くもの、ググるもの」が増え続けているような感触もあります。
加齢とともに記憶力が減衰していることも影響してるんでしょうけどね。
ただね。
前項で「ランニングしながら、記憶を整理する」って書きましたけれど、記憶していないことは整理する場面で登場してこないのですよ。
「誰かに聞くもの、ググるもの」な情報は、自分の発想の中に含まれないのです。
記憶の大切さ
よく老害の類型とされる「やたらと昔のことを語りたがる」という現象があります。
あれって本人が自覚しているかどうかは別として、記憶の大切さみたいなものを感じ始めてるからなのかもしれませんね。
僕もずっとボンヤリとそんな感覚は持っていたのですが、とくに言語化するタイミングもなく、50代半ばになって、上手くランニングできなくなって、思考がギクシャクしてることに気付いて、それでようやく「そっか記憶はなかなか重要なものだなあ、ネットが代替してくれるものでもなさそうだなあ」などと考え始めているのです。
そういえば、かつてのメインクライアントの「Webサイト制作規定」とか、自分が関連するCI関係のドキュメントとか、ほぼ丸暗記してたなあ、などと思い出しています。
そうしないと、打ち合わせ中に採択すべき意見を選びながら会話できなくて、話の進行にスピード感が出ないのです。
このブログで何度も書いているように、僕はいま、かつて携わっていたWebデザインの仕事から降りて無職になっています。
無職になってようやく「そっかオレ、丸暗記してたのか。その自覚すらなかったな」と思い至っています。
まあ、その程度の職業人だったんですね…。
過去の案件とか、そのときの座組とか、途中の人事異動とか、担当者とのやりとりとか、そのときの表情・語調とか。
「記憶」を自分なりに「整理」することで、いろんなことを効率よく進める糧としていたんだろうな、と感じています。
だから僕はずっと、打ち合わせにPCを持ち込まない派だったのですよ。
一応カッコ付けとして、メモ用ノートは持ってましたけどね。
たぶん、記録することを第一に考えてなかったんですよね。
既存の記憶と、その場の会話を混ぜて整理する場、そして、その場で起こってることを記憶する場だったのだろうと思うのです。
当時は、そんなふうに認識できてませんでしたけどね。
「過去の成功体験に寄り添おうとするな」「前例にとらわれるな」的な考え方と紙一重なのですが、会話の途中で持ち出す事例として、ググって調べたものよりも自分の体験・記憶の方が説得力があったりするんですよね。
自分の記憶は、次のステップに向けて発想を膨らませやすかったりもするのです。
言語化されていないものが多く含まれているので、それが上手い「つなぎ」の役割を果たしてくれるような、そんな感じです。
ずっとダラダラ書いたことを、ざっくりまとめると「記憶って大切だよ」ってことなんですけどね。
朝起きてバルコニーから外を見て「雨じゃん。今日も走りに行けないじゃん」とイラつきながら、そんなことを考えているのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。