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ひと呼吸おいて、そこに至ったプロセスを想像してみよう

2020.07.27

こんにちは、萩ドットライフ()です。

「この専門家は無能だ、自分のほうが上手くやれる」って思うことってありますよね。そういうときは、ひと呼吸おいて、その人がその結果に至ったプロセスを想像してみるといいと思うのです。そのひと呼吸が専門家に対するリスペクトに繋がるのです。

「自分の方が上手くやれる」か?

「これでも僕は、ずっとこの世界でメシを食い続けているのです。おおよそシロートのみなさんが思いつきそうなことは、すでに検証済みです」

なんてことを心のなかでボソっと呟いたこと、少なからずあります。

現在は無職ですが、僕は長年デザイナー稼業をしていたのです。
デザインというのは、わりかしシロートさんが口を出しやすい領域なのですよ。

「○○の広告みたいな雰囲気が好き」とか「これまで見たこともないような世界観を開発して欲しい」「ここをもっと目立たせて」「この緑を青に」「ここのフォントを明朝に」などなど、いろんな要求が集まってくるものなのですね。

「代理店やらディレクターが、そのへん整理してよ。やってらんないよ」と思うこともあれば「そういう意見をないがしろにしちゃダメ。いったんちゃんと聞きましょう」と感じる場面もあって、ケース・バイ・ケースだと感じていました。

もっと言うと「人による」だったりするんですけどね…。

こういうの、みんなが自分に言ってくることには敏感なんだけれども、自分が他人にそういう認識を持っていることには気づきにくいんですよね。

テレビやネットメディアで政治家や各分野の専門家が話をしているのを見て「あ〜、そんなんじゃダメでしょ。もっとああしなきゃ、こうやらなきゃ」なんて思うことって、日常茶飯事だったりしますよね。

場合によっては「こいつは無能だ。自分の方がもっと上手くやれる」なんてことを考えがちですしね。

まあテレビに向かう大衆のひとりとして「この監督は戦術の何たるかが理解できていない」とか「この大臣は国民のことを考えず、経済界の方にしか向いていない」なんてことをブツブツ呟いたり、SNSで延々と持論を展開し続けるくらいならば罪はないのですよ。

でもときどき、仕事上の関係者だったり、生活している上で何かを依頼するための、身近なプロフェッショナルに対してもそういう意識を持つことってありますよね。

僕はそういうとき「これを自分に向けられたら」と考えるようにしているのですよ。
冒頭で触れたように、わりとシロートさんから「ああしろ、こうしろ」と言われることの多い職業に就いていましたからね。

相身互いなのです。

当然、専門家であったり、周囲の評判が高いからといって優秀とは限らないし、人間同士ですから反りが合う合わないということはあります。

場合によっては、本当にダメな人もいますが、職業名を名乗って仕事の現場に来ている以上その確率はかなり低い(はずだ)と思うのです。

専門家に対するリスペクト

百家争鳴という考え方を否定しているわけではないのです。
いろんな人にそれぞれの立場があり、自由に言いたいことを言い合うことで生まれる何かもあります。

百家争鳴(読み)ヒャッカソウメイ【デジタル大辞泉の解説】
多くの知識人・文化人が、その思想・学術上の意見を自由に発表し論争すること。中国共産党の文化政策スローガンの一。1956年「百花斉放」とともに提唱された。
出典:百家争鳴(ヒャッカソウメイ)とは – コトバンク(2020年7月27日現在)

でも、その前に「専門家(=プロフェッショナル)に対するリスペクトって要るよね」と思うのです。

自分はその分野についてはシロートだし、なんの知見もなく、過去においてもさほど意識したこともなかった。
それでも同じ席にいる以上、そこで思いついたことを発言する資格があるし、またそうすることが義務だ。

としても、専門家の意見に口を挟むためには、ひと呼吸が必要だと思うのです。
「オレごときシロートが、たったいま思いついたよう浅知恵なんて、当然ながらすでに検証済みだよね」と。

このひと呼吸こそが、リスペクトだと考えるのです。

先日投稿した「金を払ってるから、関心を持つのです」でも書いたように、ここのところ不動産を売買したり、1,000km近い長距離の引越しをしたり、戸建て暮らしを始めたりと、これまで出会わなかった専門家(=業者)と会話をすることが多いので、ちょくちょくそういう場面に出くわすのですよ。

自分もシロートながら当事者だし、ネットでいろいろ調べますからね。
ちょっと「意見を言う」ふりをして、知識をひけらかしたくなっちゃうものなんですよね。

ただ「シロートの僕が思いつく方法を、この専門家はなぜ外したのだろう?」と考えつつ、その理由を対話しながら解きほぐしていくと、それはそれで趣深い知見を得られたりするのです。

今後の人生の役に立つかどうかは謎だけれども、「へえ、そういうもんなんすね」と、新しい世界と出会ったような感覚って、なかなか楽しいものなのです。

重要なのは思考プロセス

自分が何かの専門家という席を与えられると、それなりに「どんな前提条件なの?」「自分の領域からいま言えることは何?」「体験談を加えられる?」などなどのいろんな問いかけを自身にしながら言葉を探していくのですよ。

その結果導き出された言葉が、何の変哲もない平凡なものにならざるを得ないことなんて、往々にしてある得ることなのです。

僕もそうだし、他人もそうなのだと思います。
むしろ、考えれば考えるほどアウトプットはフツーのものになりがちなんじゃないでしょうかね。

シロートさんに「そんなもん、自分にも思いつく」と指摘されても「そうですねスミマセン」といったところです。

ただ、重要なのは思考のプロセスなんですよね。

たとえば僕が携わっていたデザインであれば「センスのいい」シロートさんが、なんとなくカッコよさげなビジュアルを模倣すれば、「なんとなくセンスよさげ」な仕上がりにはなるのですよ。

これは決して皮肉ではなく、そこからちゃんとした満足感も得られるものなのです。
シロートだって、バット振って、球に当たって、外野席まで飛んだら、ホームランなのです。

でも、運用中にKPIの見直しを余儀なくされたり、当初は想定していなかったコンテンツを付加することになったり、「無視できないエラい人のワガママ」を組み込まなければならなくなったときに、ちゃんとした思考のプロセスを経ていないと崩壊してしまうのですよ。

その思考のプロセスに想いを馳せるのが、リスペクトなのだろうと思います。

「あんな人よりも、自分のほうが上手くできる」と思ってしまったならば、ひと呼吸おいて、その人がたどった思考プロセスを想像してみればいいと思います。

それでも「自分のほうが…」と思うのであれば、それはそれで構いませんけどね。
だって僕が「デザイナーになりたい!」って思ったきっかけも「自分のほうが…」でしたからね。

これは、スポーツを観戦するときでも、レストランで食事をするときでも、家電量販店で何かをオススメされるときでも一緒なのですよ。

その人はなんらかの意図をもって、それを選択しているのです。

たとえ「自分だったらこうするな」と思うことがあったとしても、その人は僕よりも膨大な知識と思考プロセスを経て、その結論に至っているのです。

持論を展開しつつ他人を論破したり、ブログやSNSに自説をダラダラと書き連ねながらストレスを発散するよりも、その人が「それ」を選んだ理由を考えたり、対話する機会があれば考え方を訊ねたほうが、人生が深く楽しいものになるような気がするのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。