ひとりの時間を持ちたい、と思える幸せ
2020.08.05
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。定期的に「ひとりの時間を過ごすことが好き」ということについて考えるのです。それって周囲に他人の存在を感じるからこそ「ひとりの時間を持ちたい」と考えるわけで、とても幸せなことなんですよね。たぶん、これからもずっと考え続けるでしょう。
ひとりの時間を求めるのは、幸せなこと
3ヶ月くらい前に「このめぐり合わせは、いったい…」という記事を投稿していて、その中でこんなことを書いていました。
「ひとりの時間をたっぷり楽しもう」と思っていた矢先に、社会がこんなことになってしまうと、こうして「みんな集まろうぜって気力、大切だよな」なんてことを考えるようになってしまっているし。
「なんだか上手く行かないもんだな」と思っています。
ここ数年の間に、僕がとってきた行動。
新規案件の受注を停止して、無職になってセミリタイア生活を始め、東京のマンションを売却して、山口県萩市に古民家を買って、そこに移住することにしたり、これらすべてが「ひとりの時間を持ちたい」と思うがゆえなのですよ。
ここ数年の僕は「ひとりの時間を持ちたいと思えることは、とても幸せなこと」だと思っています。
なんだか、とてもひねくれた考え方のようにも思うのですが、それは周囲に自分を支えてくれる誰かがいることが前提になってるからなのですよね。
ホントはみんなと一緒にいたいのに、誰も周りにいないから、仕方なく独りでいなければならない状況だと、ツラいですよね。
そんなときは決して「ひとりの時間が欲しい」などとは思わないはずなのです。
もともと僕は「ひとりでいたい」と思うことが多い性格なのです。
だから、フリーランスで働くことを選んで正解だったと思っています。
僕が「ひとり好き」であることは、過去に何度か記事を投稿していますので、関心がありましたらご一読を。
加齢のせいだかなんだか、自分でもよくわかっていないのですが、50歳を超えたあたりからその欲求がさらに強まってきたような気がします。
孤立を容認しようとしているのかも…
自分の行動や考え方に、いちいちくだらない干渉をしてきたり、「なんだか、この人と一緒にいると不快だな」と感じる人から距離を取ることを習慣化すると、とても快適です。
一定期間で付き合う人の顔ぶれが入れ替わったりしますが、それも仕方ないと思っています。
ただ、その快適さってちょっとした中毒性もあるんですよね。
「こいつ、うっとうしいな。電話着信拒否にして、SNSブロックしよ」のハードルがどんどん下がっていくのですよ。
「このままだと、このまま孤立に向かうんじゃない?」などと思うこともあります。
バランスの問題なんですけどね。
どこかしらで「どんだけ好きなように振る舞っても、オレが孤立なんかするワケない」という、甘えと言うべきか、根拠のない自信のようなものが芽生えてきているような気がします。
いっぽう「孤立しても、ぜんぜん平気なんじゃない?」という気持ちの存在も自分の中に感じるのですよ。
人生のある時期、自ら社会との関係性を断って極限まで自分自身と向き合うフェーズがあってもいいんじゃない? みたいな感じです。
別に山ごもりするわけでもなく、単に優先順位の付け方だったりするんですけどね。
すでに何人かの知り合いには「無職になってセミリタイア生活をはじめた」ことを伝えているのですが、その中の数名は「じゃあヒマになったんだ。ならばいつ誘っても大丈夫だね」という反応をしてきました。
おそらく、その人が誘う会合に参加することはないと思います。
その人と時間を共有することよりも「ひとりの時間」を過ごすことの方が大切だからです。
こういうことを繰り返してると「たぶん孤立するな」とは思うのですが、「むしろ、孤立を容認して削ぎ落としたほうがいい部分だな」とも感じるのです。
どんな種類の「ひとり」を求めてる?
なんだか、定期的にこんなことを考えています。
前述の通り、このブログでも何度か「孤独」をテーマにしていますしね。
つくづく「孤独とは、人間が社会性の生き物であることの証なのだなあ」と感じます。
本当にひとりでいれば「孤独」なんて感じることはありませんからね。
周囲に誰か他の人が存在するからこそ、認識できる概念なのですよ。
いま50代半ばにして「もっと、ひとりの時間を増やしたいな」と思っています。
これまでの人生を振り返ってみても、他の人よりもひとりで過ごした時間が長い部類に入ると思うんですけどね…。
そういう質(たち)なんだから、仕方ありませんよね。
「ひとり」を表す言葉って、いろいろあります。
たとえば、
- 周りに人がいるのに、どうにかして確保したいひとりの時間は「孤独」
- 周囲のの人々との関係が絶たれてしまって、望んでいないのにひとりになるのは「孤立」
- 超然と周囲からの距離を取って、ひとり高い理想と向き合うことは「孤高」
みたいな感じでしょうかね。
これらは、国語の辞書的な解釈じゃなくて、僕の感じ方です。
本当の意味は違ってるかもしれませんのでご容赦を。
ずっと「ひとりの時間」が好きで、その状態を確保するために働き方や、環境を決めてきたのです。
たぶんこれからも、そうし続けると思います。
でも、いま自分が求めている「ひとりの時間」は、どんな種類の「ひとり」なのかを知りたいと感上げることが、もうひとつ自分を掘り下げることに繋がるんじゃないかな? などと思っているのです。
もう少し、自分の人生が豊かになってくれるとウレシイのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。