同じものを見てるけど、同じように見えてない人
2020.08.09
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。他人に共感できないことって、わりと日常的に出くわすことだし、それ自体は善悪や敵味方を作るものではなくて、むしろ「豊か」なものだと思うのですよ。無理やり共感しようとせずに「わかり合えない」のままで放っておいたほうが快適だと思うのです。
「共感」ってやつが、なかなかやっかい
人はそれぞれ、大切にしているもの、目指している場所などなどが違うので、他人の考え方や感じ方をなんでもかんでも「共感」できるわけありませんよね。
とくに生活してきた環境や、世代が違うと「この人と自分。同じものを見ても、同じように見えてないんだな」と感じることが多かったりします。
この「共感」ってヤツがなかなかやっかいだと思っているのですよ。
世間的には、共感し合えると楽しいし、共感してもらえると嬉しいってことになっているのです。
特に否定しません。
僕は、いちいち「自分はちょっと違う角度からモノを見るよ」的なアプローチをしてくる人を「ウザっ」と感じることが多い性格なのです。
自分の中にも、そういう成分が少々含まれているからかもしれません。
僕が「共感ってやっかい」だと思うのは、「人なんてそれぞれなんだから、共感なんてできなくても構わないじゃない」のまんまで放置しにくいからなんですよね。
モノの見え方やら、感じ方なんて、違ってて当たり前なのですよ。
「ほう。違いますね」とか「へえ。さっぱりわかりませんね」をそのまま共有だけしといて、無理やり「共感」し合おうと思わないほうが心地良いことっていっぱいあるのです。
これって、とても大事なことだと思うんですよね。
でも、なかなかそのまま放置しておくことは難しく…。
あるときには他人から「どういうこと? わからない。どういうこと?」としつこく問いただされて辟易することもあるし、僕が他人にウザ絡みしてしまうこともあります。
なかなか双方で「うん、違うね」と気持ちよく折り合えるタイミングって少ないんですよね。
僕がもっと若かったころには「この人と長い付き合いになれば、こういうのもスムーズになるんだろうな」なんてことも考えていたこともありますが、50代半ばを超えても未だに似たようなことを繰り返していますので、あまり付き合いの長さとは関係なさそうです。
「わかり合えないね」のままでいいと思う
「わかり合えない」って、実は豊かなことだと思うんですけどね。
何かしらを見て、その何かについて「こう見えたよ」「こういうふうに感じたよ」と、それぞれが自分の言葉で表現するのですから「それって、どういうこと?」が含まれていて当然なんですよね。
世の中「自分ならば、決してそういう表現できなかったな。だって、そんなふうに感じてないんだもん」だらけなのです。
どれが正しくて、どれが間違ってるわけでも。共感できる人が見方で、できない人は敵ってわけでもないのですよ。
「まあ、いろんなものがあるよね」で、ほっときゃいいのです。
ときには、単純に「自分はそのときそう感じなかったけど、あとからジワジワ面白い」みたいな感じ方に影響されて、自分の中に何かが芽生えたり、ね。
だから、何が何でも「共感」なんてする必要ないのですよ。
そんなの、無理だし無駄なのです。
ただ前述のように「共感はやっかい」なのは、バイオリズムみたいなものがあって、
- 「なんだか、すごく他人から共感されたい」ということもあれば
- 「共感なんてされなくていい、別の感じ方と出会いたい」なんていうこともあったり
- ときには「共感されるされない以前に、干渉すらされたくない」なんて局面もあったり
するのですよ。
(1)は、似たような考え方の人たちとワチャワチャしていたい、(2)は、違った文化圏の人と交わって刺激を受けたい、(3)は独りでいろいろ考え続けたい、みたいな感じでしょうかね。
そんなにスパっと割り切れるもんじゃありませんけど、なんとなく分類してみるとこんな感じになるように思います。
自分の中にもうひとり「わかり合えない人」
なんとなく似たようなことを過去にも「すぐ飽きる性格との向き合い方」という記事で書いていますね。
僕は今、職になって山口県萩市に移住して、生活環境を総とっかえしようとしているのですが、四半世紀前にフリーランスになったときと自分の中の心の動きがとても似ているのですよ。
前述の共感との向き合い方でいえば(2)「共感なんてされなくていい、別の感じ方と出会いたい」と、(3)「共感されるされない以前に、干渉すらされたくない」が交互にやってきている感じです。
僕が今やってることに共感してもらえれば、それはそれで嬉しいことなのですが、そこで心地よさを感じてしまうと動きが止まっちゃう感じがするんですよね。
とても天の邪鬼なフェーズにいるのです。
たぶん、こういうときって普段の自分とは違うモノの見方をしているし、違う感じ方をしているのかもしれません。
ときどき、自分で感じたことに対して、自分で違和感を感じたりもするのですよ。
定期的に自分の中のモノサシみたいなものをシャッフルしてるのかもですね。
人生の転機って、そういうものなのかも知れません。
というか、自分でなんとなくその辺りで折り合いを付けたがってるんですよね。
とくに僕の人生に危害を加えているような感じでもありませんから「こんなときもあるかもね」と肯定するようにしています。
なんとなく自分の中にもうひとりの「同じものを見てるけど、同じように見えてない人」がいるように感じるのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。