意思決定者は、ひとりにかぎる
2020.08.14
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。もし自分が経営している会社に従業員や共同経営者がいたら「無職になって、山口県萩市に移住」なんて決断ができただろうか? などと考えることがあるのです。「たぶん無理だったろうな」と思います。意思決定者が僕ひとりだからそうできたのです。
他者の存在を意識すると、決断がニブるんです
東京人でいられるのは、今日を入れてあと3日。
4日後には朝から引越し業者が来て、水道とガスの停止に立ち会って、仲介業者にマンションの鍵を渡して、昼過ぎにはTCATに向かい、15時過ぎの飛行機に乗って山口県萩市に向かいます。
こうしてカウントダウンが始まると、もう引き返すことなどできないにも関わらず「この決断、本当に正しかったのかなあ?」などと不安に思ったりもするんですよね。
今回に限らず、大き目の決断をするときにはいつもこうなんですけどね…。
グズグズクヨクヨした性格なのです。
以前「人を雇わない会社を経営してきた理由」という記事を投稿しているように、僕は法人も所有しています。
なので、個人だけではなく法人も引っ越しするのです。
いわゆる「ひとり親方」というスタイルでずっと続けてきました。
「もし人を雇ってたり、他人と共同経営してたら、この決断できたんだろうか?」と考えることもあります。
ひとりで考えて、ひとりで意思決定するときにも、架空のブレーンストーミングみたいなことはやります。
「この立場から考えると…」とか「もしオレがこんな性格だったら…」みたいな妄想をしながらいろんな角度から考えてみるのです。
やはり他人の存在があると「オレ無職になるよ」も「山口県に引っ越すよ」もできなかったんじゃないかな? と思うのです。
僕がイメージする「架空のブレスト」に登場してくる、架空の従業員が「会社を離れたくない」と言い出すワケでも、架空の共同経営者が「自分だけが会社に残るなんて、そんなの無理」と、事業の完全譲渡を拒んでくるワケでもありません。
僕自身が従業員や共同経営者の存在を慮って「こんなこと、自分勝手過ぎるよね」と、自らブレーキをかけるような決断に至っていたと考えるのです。
他者の存在を意識しすぎると、決断がニブりますよね。
思えば、話し合いから合議を経て決議に至るような「集団意思決定システム」がなんとなくまどろっこしく感じていたので、僕はフリーランスになったんですよね。
あらためて「意思決定は、個人でやるに限るなあ。ずっとそうやって生きてきたなあ」などと思っています。
集団合議の、是と非
場面によっては「あの人は協調性がない」という評価を受けてきたのかもしれません。
そういうのって、なかなか僕自身の耳には届かないし、幸か不幸か職業人として平凡な能力しか持ち合わせていないので「激しい抵抗にあった」とか「出る杭として打たれた」みたいなことも、なかったように思いますけどね。
「ほんのりと感じることくらいはあった」程度のもんでしょうかね。
当然、集団合議のメリットも認識してないワケではないのですよ。
去年の9月に無職になるまで、僕の職業はデザイナーでしたから、ミーティングやら打ち合わせと称して、ブレスト的なことをやったことはあります。
「そういう考え方はなかったな」「ほう、さすがっ。スゲぇな」「独りで考えてたら、そんなアイデア思いもよらなかったな」なんて経験、いっぱいあるのです。
また、デザイナーの仕事は、僕自身が満足することでも、同業者に一目置かれることでもなくて、クライアントの成果に寄与することなので、なかなか「この案件のデザインに関することは、オレが決める。文句は言わせない」とはなれないのです…。
もちろん僕なりに「こうすべき」と思ったことの説得は、あの手この手を使って続けますけどね。
意思決定者はクライアントなのです。
反面、複数人でアイデアを出し合うからこそ「話が先にすすまない」ってケースもあるのですよ。
前述の「ブレストの効果、あるよ」と同じくらい「みんなで決めようとするから、ダメなんだよ」ってこともあるのです。
パターンはいろいろあるのですが、別の意見を言われると「自分の意見を否定された」と不機嫌になっちゃう人が混ざってるとか、自分のアイデアを通そうと意固地になるとか、決定権者の意見が必要以上に重要視される、とかでしょうかね。
考えたらまだまだでてきそうですが、もっと重要なのは「ブレストを経て、アイデアが出尽くした感じになっちゃう」ってことじゃないでしょうかね。
「ゴメン。もう1回ひとりで考えてみるわ」ってフェーズに立ち戻ることも大切だったりするのですが、その機会が失われがちだったりするんですよね。
意思決定者は、ひとりがベストだと思うのです
メリットでもありデメリットでもあると思うのですが、ひとりで意思決定すると意見の対立が起こりません。
なので、結論が概ね自分自身で「満足できる」と「諦められる」の間くらいでバランスを取ろうとするんですよね。
合議中に意見が対立すると、意見が極端な方向に向かいやすいんですよね。
わかりやすいのは、twitterなどのSNSです。
現実社会で会うと、なかなか常識的なバランスの取れた人なのに、SNS上では過激な意見を連発してる人っていますよね。
おそらくSNS上にいるときは、対立モードになってるんでしょうね。
揉めれば揉めるほど、意見を先鋭化しちゃってますよね。
また、冒頭で「もし従業員がいたら、この決断できてないな」と書いたように、慎重すぎて「何も起こさない」という決定をしがちでもあります。
前述の「極端な方向に向かいやすい」と矛盾しているようでいて、そうでもなかったりするんですよね。「超過激か、何もしない(膠着)か、どちらかに振れやすい」ってことだと思います。
「自分の思ったとおりにものごとが動かないのは仕方ない。でも対立グループの思い通りになるのはイヤだ」って感情が働きますしね…。
こういうのって、複数人どころか2人でも起こりますよね。
むしろ、険悪な2人のほうが八方塞がり感、強めだったりします。
そして、だいたいの人は「みんなで話すと、過激か膠着かに振れやすい」ってことくらい分かってるんですよ。
でも、集団合議でしかものごとが決まらない組織ってのは、そういうシステムになっちゃってるんです。だから、それを解消しようと思っても、それも集団で決定しなきゃいけないっていうね…。
で、だいたい動かしたいほうが膠着派を責め、動かしたくないほうが過激派を責める、という構図ができるんですよね。
そしてそこにイデオロギッシュな政治テーマを「例え話」として持ち込んできたりね。
「そうやって、かつての日本は戦争に向かった」とか「だから、いつまでも終身雇用なんて幻想にしがみついてる」みたいな感じでしょうかね。
結局、話はどんどんややこしくなってくるし、堂々巡りになるし、時間ばっかりかかってしまうのですよね。
結論が出てからも、後を引きますしね。
ちゃんとした組織ならば、みんな「合意に至った以上、その決定に従う」という態度はとりますが、「だから、あのとき反対したんだ」とか「その意見に乗っかった人同士で頑張れば?」みたいな雰囲気って、なんとなく残りますよね。
だから僕はずっと「意思決定者はひとりにかぎる」と考えているのです。
もちろん、なんでもかんでも僕だけで決められるわけではありませんが、そのようにできる分野を増やしたいと思っているのです。
ひとりで意思決定できることが多い生き方を選んできたし、これからもそうするつもりなのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。